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2010東大合格発表シーズン①

☆3月10日は東大合格発表の日である。学歴社会の頂点であり、明治時代から日本社会のものの見方や感じ方にまで影響を与え、文化資本を蓄積してきた。その文化資本は、当然お金や物質という形式ではなく、知のあり方である。

☆東大を超える大学が存在してこなかったために、日本社会のものの見方や感じ方は1つのバージョンしかなかった。つまり知のあり方はあたかも1つのバージョンしかないかのように映し出されてきた。このバージョンを強化するシステムが公立学校システムである。

☆東大教育学部の知のあり方である1つのバージョンが、1つの理論負荷的な知の先入観をつくってきたのである。たしかに科学としてそのことの誤りを研究している学者もまた東大の中にたくさんいるのであるが、こと学問が政策に転化する段階では、論理実証主義的、要素分解・還元主義が台頭してしまう。

☆戦後一瞬ではあるが、関係主義的ものの見方や感じ方が、教育政策に転化したように見えた(戦後教育基本法の成立経緯がそれ)が、すぐにその政策は捨て置かれた。その捨て置かれたものの見方を明治以来保守してきたのが私立学校の中等教育であった。

☆開成学園に見られるように、東大に入学して内側から変えようという私立学校の意志もあるが、たいていは論理実証主義に回収されてしまう。それでも私立中高一貫校自体は、教育理念を守り続けている。

☆偏差値や大学進学実績の指標は、まさに論理実証主義の亜流であるから、私立学校と公立学校を同じ土俵内で比較してしまう。それゆえ、私立学校の理念的文脈をそぎ落としてしまうのだ。プロクルステスのベッド。。。

☆本当は東大と肩を並べる大学が、もう少しあり、ものの見方も感じ方も違う理論負荷的なバージョンを作ってくれればよいのだが、日本の学歴社会はそうはならなかった。ガラパゴス社会というのは、島国的で閉鎖的という物理的空間メタファーで語られるが、まあたしかに経済ベースの話が中心だから、そうならざるを得ないが、理論負荷的な世界が一つしかないということも意味する。

☆これでは、世界はモノトーンになってしまう。もちろん東大の中で多種多様な理論負荷的な世界が議論されてはいる。しかし、先に述べたように、政策になると1つなのだ。それが時々政策レベルでぶつかり合うときがある。近代の矛盾そのものが噴出するときなのだが、その1つが明治以来の公立学校システムと私立学校教育システムの葛藤なのである。

☆学校システムとは知を生みだす環境である。論理実証主義的・要素還元主義的知を生みだすのか、構成主義的・言語的転回主義的知を生みだすのかが決まるのである。もちろん、話はこんなに簡単ではない。グリーンなのかブルーなのか、本当はグルーであり、どちらに重点を置くかなのだが、その決定基準は何なのか・・・、それは実に難しい話。

☆なんで、こんなことをウダウダ思いついたかというと、今年の東大の前期試験の国語の現代文の文章を読んだからである。素材を選択する場合、価値自由だとか中立だとか言うわけにはいかない。あるフィルターや前提、つまり学問的関心がどこかで作用している。

☆東大の入試問題も理論負荷的なのだ。だから、どういう理論を背景に持っているのか憶測するぐらい許されるだろう。

☆すると、なんと構成主義というか記号主義的な文章が出題されていた。今風に言うと、プライバシーのキャラ化の話である。ムムムム・・・。東大内において何か政策論者の流れに変化がみられるのだろうか。

☆しかし、文化系の国語の問題にはもう1つ現代文が出題されている。詩人小野十三郎のエッセイである。当然、要素還元主義なはずがない。ムムムム・・・。

☆だが、グリーンかブルーかははっきりしない文章なのだ。グルーである。そういう意味では中立なのかもしれない。実に巧妙ではないか。

☆構成主義の盲点は、構成主義と言いながら、実は排除の理論負荷的な部分が残存しているところである。宮台真司さんは、この残骸を徹底的にクリーニングしようとしている。しかし、世の中では、その思想的対決の重要性はまだまだ気づかれてはいない。

☆内面―外面という2項図式を破壊し、相対化するのはよい。しかし、外面の知の文脈だけ残して、内面の知の文脈を無意味というレッテルを貼り、廃棄する戦略が忍び寄っている。

☆私立学校の場合、この内面の知の文脈こそが教育理念を意味する。心理学的には無意識を無化する。それによって、暴力への感情を抑えようとする。しかし、本当は創造の感情までも廃棄することになる・・・。

☆むしろ内面―外面の2項図式の間にある壁を破壊することで、個性として所有されていた内面の知の文脈をオープンにしていこうというのが、構成主義の知のあり方だったはず。

☆しかし、渋沢栄一の「論語と算盤」の「論語」の部分を廃棄しなければ、ポストモダンはやっていけなかったのだ。

☆さて、東大の入試問題の出題文章の知のグルーは、グリーンよりなのかブルーよりなのか。解答は3月10日に少し見え隠れするかもしれない。

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