公立の限界を超えるために[了]制度的公共圏から独立するしかない
公立の限界を超えるために[04]のつづき。
☆前回「土井さんの岩波ブックレットを読めば読むほど、公立学校はヤバイ」と書いたが、これは公立学校があまりに制度的な公共圏であることを、土井さんも語っているからだ。
☆「公立学校」と「私立学校」という言葉から、よく誤解されるのは、前者は公共的な領域だが、後者は私事の(プライベートな)領域であるから、助成金を出すのはおかしいのではないかというようなおかしな話。
☆「公立学校」は憲法と教育基本法と公務員関連法規で規制されている。近代社会のうちミニマムな学びの環境を保護しているはずなのだが、わざわざミニマムな環境に押し込めてしまいがちな封建的な名残の国民の法律観(というか法実証的なものの見方)を逆手に取っている観がある。
☆「私立学校」は、憲法以上に、教育関連法規以上に近代の理想に向かって教育理念を掲げて教育活動を実行してきた。それに公務員関連法規からは独立している。「公立学校」はそういう意味では≪官学の系譜≫という公共圏だし、「私立学校」は≪私学の系譜≫という公共圏なのである。
☆≪公≫と≪私≫の違いは、時代によって場所によって立場によって違い、歴史的産物である。画一的な定義などない。その関係は、
①支配―被支配の関係
②勝ち組―負け組という優勝劣敗関係
③法実証主義的社会―自然法主義的社会の関係
④人間的世界―神の国的世界の関係
⑤民主的合意形成の価値―内なる芸術的な価値の関係
☆≪官学の系譜≫の公共圏に対する考え方は、基本的には明治国家建設以来、①と②である。これに対し≪私学の系譜≫の公共圏に対する基本的な考え方は、③や④や⑤などになる。
☆だから、土井さんが次のように言っても、限界を乗り越える「知恵」は≪官学の系譜≫の公共圏では絶望的なのである。
昨今の若い人たちが、現在の自分を絶対視してしまいがちなのは、それを生まれもった自分のキャラと感じるようになっているからでしょう。だから、いまの自分の姿はそのまま将来も同じに違いないという確固たる信念が芽生えてくるのでしょう。とりあえず何かを実行に移しているうちに新しい世界が開けてくるかもしれないし、あるいは自分も変わっていくかもしれないという発想が、ここから生まれてくるのは困難なことのように思われます。
☆内なる普遍的な物差しは喪失し、キャラをそれだと錯覚し固定化してしまう若い人たちは、そこから抜けるのは困難だと土井さんは吐露しているわけだ。それはなぜか、「公立学校」が≪官学の系譜≫の公共圏だからである。
しかし、長い人生のなかでつまずくことは、事件を起こした青年たちだけでなく、どこの誰にでも起こりうるものです。不気味で異質なものは、多かれ少なかれ誰のなかにも潜んでいます。私たちは、自ら内部に圏外を併せ持っているのです。そのトロイの木馬の扉がいつ開かれるかは誰にも予測できませんし、日常生活の圏外に対してセキュリティをいくら強化しようと、またその圏内への監視の目をいくら緻密化しようと、この内なる圏外からの逃げ道もありません。
☆なんと絶望的なのだろう。しかし、この土井さんの考え方は、不気味で異質なもの=内部の圏外=≪私≫ととらえている。そして、この≪私≫を≪公≫に監視されるもの、劣るものという価値観で捉えている。つまり、≪公≫と≪私≫の関係を、先に述べた①や②のような考え方で捉えているのである。
☆しかし、≪私学の系譜≫の公共圏で考えれば、内なる不気味で異質なものには、聖なる価値や創造的なエネルギー、新しい発想の泉などの可能性がある。もちろん危うさもあるだろう。しかし、それは内なる普遍的な物差しをあててクリティカルシンキングで調整していけばよいのである。それが公立の限界を乗り越える「知恵」なのである。
☆それなのに、「公立学校」はこの知恵を捨てて、どうすればよいというのだろうか。
排除型社会の仕組みとそれを支える心性を克服できなければ、いずれ最後には、自分自身を自分から排除せざるをえない結末が待っているという「宿命」なのです。
☆と土井さんは語るが、これは同語反復ではないか。だからそうするためにどうしたらよいのか?≪官学の系譜≫の公共圏にいる限り、抜けられないよということなのか。学びの市場と私学市場という≪官学の系譜≫という公共の圏外にいくしかないということか。
| 固定リンク
「教育の挑戦」カテゴリの記事
- 「チームG2C」 活動着々!(2017.11.18)
- 正智深谷高等学校の挑戦(2016.10.22)
- 今年も「進学相談会 in ふっさ」がやってきた。(2014.06.07)
- 佐藤学氏 学びの共同体で「学校を改革する」(2013.12.06)
- 影響力のあるものどうしが責任を果たす?(2012.10.18)
最近のコメント