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白梅学園清修の入学式 かたち着々

☆本日(2010.4.4)、白梅学園清修中学校の入学式が行われた。ときどき同学園の行事に訪れながら、5期生を迎える新しい女子校の成長する過程を見学させていただいている。

☆昨年のスピーチコンテストでも感じたが、今回の入学式ではよりいっそう感じたことがある。そしてそれはいよいよ清修の潜在的な教育力が「かたち」になってきたのだと、私の中では確信となりつつある。

☆それは生徒の考える「型」が決まってきたなあということである。フォームと言ってもよい。それは個々人によって違うのであるが、そこには白梅学園流儀が形成されているのだ。

☆白梅学園流儀とは何かと言うと、卒業生でも教員でもない私にわかるはずはないのだが、私立学校の理念はオープン・マインドな部分もあるし普遍的な精神でもあるがゆえに、外部の人間でも多少は共鳴することができるものなのだ。

☆それは何かと言うと、在校生代表が新入生を迎える「ことば」の中にあったのだ。そして、その「ことば」がひとり在校生代表のものではなく、多くの清修生の雰囲気を伝えるものであったのである。

☆在校生代表のその「ことば」の雰囲気とは何か?それはレトリックの差異にある。入学式という式典で使われるレトリックは、たいていは直喩か、先人たちのことばの引用というレトリックだろう。

☆しかし、それでは樋口校長が、式辞の中で語っていたように、たんなる儀式になる。入学式で語られる「ことば」は、存在理由の宣言であると。これは身に染みた。

☆そしてそれがどういうことかは、在校生代表の「ことば」に映し出された。存在理由。それは人間の根源的問題に気づこうとしない善人が放つ道徳を懐疑することであった。入学式であるのに、大いに期待に胸をふくらますことは不安を生むことであるというパラドキシカルなメッセージを投げかけた。もちろん、それをどうやって解決するのか、説明があった。それは清修ならではの時空を超えて教師とつながるITまで活用するコミュニケーション環境と友情の絆を育む文化があるから大丈夫だよと。

☆清修を選んだのは、まさか表面的な理由ではないだろうね。いやはじめはそういうものだけれど、いっしょに歴史をつくっていくうちに何が大事かわかるからねというトーンは、1期生からその精神は脈々とながれているではないか(在校生代表は3期生)。

☆いっしょにやっていこう。でもそのまえに、1つ確認しておきたい。まさか今そこにいるのは、自分の力だけでそうなっていると思っていないよね。みんなを支えてきてくれた人の顔を思い出してほしい。そしてこれからもみんなを支える新しい仲間がいるからね。ようこそ清修へ。こんな感じだったと思う。

☆数学的論証コミュニケーションと社会科的説得コミュニケーションの違いのわかる先生方が率いているのは、5年前から知っていたが、このようなことを意識して思考力や表現力を育成している学校はあまりない。

☆一般に論理とは矛盾のないわかりやすい思考のプロセスだと思われがちだ。しかし、世界同時的混乱期に突入しているいま、だれがその有効性を信じているだろうか。根源的な問題を見出すレトリックはパラドクス以外にない。アインシュタインの手法でもある。

☆知識の確認→知識の整理→知識の比較→論理的思考→批判的思考→創造的思考と、EUやOECD/PISA、米国の新学習理論では、思考のレベルを設定している。細かいところはいろいろと違うのだが、大まかな流れとしては同質性がある。

☆たいていの学校では、論理的思考で止まる。そこから先のプログラムはない。そこからは生徒自身による興味と関心の持続によって、達成されるかどうかが決まる。

☆しかし、清修には、このプログラムがあるのである。世界標準ということだ。開設5年目を迎え、その潜在力が着実に「かたち」になっていると思う。

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