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インターフェースバイザーと大学入試の現代文リテラシー

☆インターフェースバイザーは誰でもなれるが誰でもそうであるわけではない。いずれにしても、これを資格制度にするとろくなことはない。人間の言論の自由と思考・表現の自由を保守する脳神経の活動であるからだ。

☆したがって、公立学校で積極的にこのコミュニケーション圏は出来(しゅったい)しないのだなぁ。コーチングやファシリテーター、カウンセラーは資格があるから雇う事ができるが、インターフェースバイザーは、あくまで社会的起業精神そのものであるから、だれでもが持てるものでなければならない。

☆教育政策から生まれるのではなく、人間としての原理から生まれるものであるから。人間の存在起源論そのものであるからだ。教育政策はあくまで、その社会制度の制約の中で生まれるものであり、政府の政策判断によって揺れ動く。

☆教育の政策と教育の原理の違いが問われないのが今日的トレンド。なにせ理念なんて語ったら、ウザイといわれる世の中だ。教育改革といっても教育政策判断に基づいているのか、教育の原理に基づいて行われるのかでは、トーンも質も違う。いわゆる質感が違うのにである。

☆もちろん、教育政策が原理にしたがえば問題はない。しかし、国単位のフィルターがかかるわけだから、ゆがむのは当然。その点多くの私立学校は教育の原理で動いている。だから、私立学校の存在は、そのゆがみをチェックする鏡みたいなものである。

☆そんなわけで、インターフェースバイザーによるコミュニケーション圏は、私立学校と心ある家族や企業、NGO・NPOにしか、今のところ存在しない。

☆インターフェースバイザーのコミュニケーションのソフトパワーはどんなところにあるかというと、今のところそれをきちんと表現している書物は存在しないが、とりあえず次の二つの書籍から出発して構築することは可能である。

☆まずは谷川俊太郎さんの「詩ってなんだろう」。

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☆もくじを見ると、

わらべうた
もじがなくても
いろはうた
いろはかるた
ことわざ
なぞなぞ
したもじり
あいうえお
おとまねことばの詩
おとのあそびの詩
しりとり
いみのあそびの詩
アクロスティック
はいく
たんか
さんびか
ほんやく詩
あたらしい詩
ふしがついた詩
つみあげうた
きもちの詩
いろんな詩をよんでみよう
ほうげんの詩
詩ってなんだろう

☆ことばの原理を考える端子がいっぱいでている。しかし、それでも谷川俊太郎さんはこう語る。

おどりだしたくなるような詩、じっとかんがえこんでしまうような
詩、かなしくないのになみだがでてくる詩、さがしていたこたえが、
みつかったようなきがする詩、つぎからつぎへとでてくるおいしい
ごちそうのようだね。そう、詩はわからなくても、たべもののよう
にあじわうことができるんだ。詩をよむと、こころがひろがる。詩
をこえにだすと、からだがよろこぶ。うみややま、ゆうやけやほし
ぞら、詩はいいけしきのように、わたしたちにいきるちからをあた
えてくれる、ふしぎなもの。詩ってなんだろう、というといかけに
こたえたひとは、せかいじゅうにまだひとりもいない。

☆この文章の「詩」を「ことば」に置き換えると、インターフェースバイザーの存在が生み出すコミュニケーション圏が広がるのである。

☆この谷川俊太郎さんの詩というかことばに対する思想を哲学的に考察すると、廣松渉さんの「もの・こと・ことば」に結実する。

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☆これは難しい本。幻惑的な漢語が多くて、ポスト・ポストモダンの旗手だったのだが、わかりやすさ重視のジャーナリスティックは受け付けないだろう。しかし、なぜかそのジャーナリズムも知らず知らずうちに、良い意味でオタク文化にも、廣松渉さんの考え方は、浸透している。キャラ化とキャラクターの差異関係なんて、廣松渉さんの役柄と役割の差異関係に似ている。

☆宮台真司さんや東浩紀さんにとっては、廣松渉の書物は、つまらないけれど教科書的存在としてあることは否定できないだろう。それはさておき、本書で廣松渉さんは、言語についていろいろな議論があるけれど、言葉に対する足場が違うだけで、そこを問わないもんだから、いつまでもたっても言葉とは何なのかわからんのだよと。

☆その足場とは、言葉の意味を「事物」とみるか、「心象」とみなすか、「機能」とみなすかという違い。谷川俊太郎さんのように、詩っていろいろあるように、言葉もいろいろあってよいんじゃないかと。

☆ただし、こう願っている

言語的記号がそれとして向妥当し対妥当する構造的成態の総体を「意味」=所記として扱い―「意味」なるものの物象化を卻けつつ―、指示・述定・表出・喚起の機能的諸契機を飽くまでこの“函数的連関態”の“項”として処理しようとするわれわれなりの見地を示唆し得たことと念う。

☆むむむむ・・・。何言っているかわらないかもしれない。とはいえ、文庫本の解説を書いている大学入試の現代文でも扱われるだろう熊野純彦さんによると、一般読書にわかりやすく書かれているということになっている。それは違うだろうと思うが、これをひらがなばかりで言うと、谷川俊太郎さんのさきほどの文章になるのだ。

☆谷川さんと廣松さんは同時代人ではあるけれど、とくに連携してことばについて語り合ったわけではないだろう。ただ、原理を探究していると、自ずとシンパシーが生まれるというわけだろう。

☆いずれにしても「意識―作用」の関係をいろいろな角度からみると、ことばというのはおもしろいよということなのだ。ただ、廣松さんは、その作用を限定的な立ち位置でしかコミュニケーションしない事は問題だよと警鐘をならし、谷川さんはそうならないように、「詩ってなんだろう」にあるような詩をつくって遊んでみようよと言っている。

☆さらにしかし、廣松さんは大事なことを言っている。「意識―作用」は、本当は「『意識対象―意識内容』―意識作用」のように入れ子になっているのに、そういう深さの探究は日常ではしないように教育されているから、「意識―作用」が「対象―内容」として錯認されてしまう。それを物象化というのだけれど、それによって、作用である感性や思考の働きが廃棄されてしまう。

☆これによって、「対象―内容」という関係をずたずたにされた知識が配列されることになる。知識の組み合わせのデータベースのみが重要になるよと。むむむむ・・・。そうなってくれると、ここには資本主義に対する批判的視点と同じような質感が生まれてくるし、批判的思考や創造的思考が回転しだす。

☆この錯認を批判しているのが宮台真司さんや東浩紀さん、熊野純彦さんをはじめとする思想家・批評家。そして大学入試の現代文もこの流れを汲む作家からの文章が出題される。

☆かつて河合塾が、廣松渉さんを応援し、東大退官後も廣松渉さんに活躍する場を与えようとしたのは、おそらくそういう見通しがあったからだろう。河合塾はたしかフランスで文化貢献をしたとして評価されている。廣松渉さんの著作集が、フランスのストラスブール大学にあるのも、そういうことが影響しているのかもしれない。

☆いずれにしても谷川俊太郎さんと廣松渉さんの両著作を読みこむことによって、インターフェースバイザーのコミュニケーション圏が出来するのである。

☆ちなみに中学受験にも役に立つ。筑駒の詩や麻布の物語の入試問題を考えるときに直接役立つだろう。もっとも中学受験生が廣松渉さんを読むわけにはいかない。それでそれをカリキュラムとして換骨奪胎しようとしたのが、日能研の国語のカリキュラム(今はその精神は当然雲散霧消しているけれど)。大学受験ではストレートに廣松渉さんの思想を現代文や歴史のテキストにして教材化していたのが河合塾だったのである(今はその精神は当然雲散霧消しているけれど)。

☆今はむしろ慶應大学の田中茂範さんの言語論が大衆化されてわかりやすく浸透しているのかな。こちらはベネッセの流れ。しかし、田中さんの研究活動は、廣松渉さんを無視していないし、廣松渉さんと時を同じううして退官した池上嘉彦さんの業績も無視していない。

☆まったく別の路線ではない。ただ、ベネッセは塾・予備校ではない(機能はもっているが)。教育的見地に立って、わかりやすくをモットーにしている。だから、廣松渉さんはまったく無意識下にあるのだが、脈々と続いていることは確かである。原理はやはり普遍的だということだろう。

☆だから、ベネッセの今後のおもしろさは、インターフェースバイザーのコミュニケーション圏が意識しなくても生まれるという事なのだ。逆にすでにそれが発揮されていた日能研や河合塾は、そこは途絶える可能性がある。教育市場と受験市場の分岐点・・・ということか。

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