私立学校の教育と受験市場のズレ④
☆前回、受験市場の欲求枠ではなく、私立学校の教育の枠を知るには、それを自ら作ろうとしている教師にまずは聞いてみることが大事であると述べた。そしてすでに東京私学教育研究所で発行している「所報74」を紹介し、本誌に掲載されている論文を書いている教師に、ものの見方・考え方を取材されるのがよいと書いた。
☆しかし、どのようなメンバーが論考しているのか、執筆者を紹介していなかったので、ここで、確認することにしたい。大学の教授をはじめ各界の方々も執筆されているが、今回は私立中高の先生方を紹介する。ただし、所属は「所報」掲載時のものである。
嘉悦克先生 かえつ有明
武井秀行先生 かえつ有明
大内健司先生 嘉悦女子
平井達也先生 嘉悦女子
石川洋子先生 跡見学園
伊藤和彦先生 多摩大附属聖ヶ丘
伊藤史子先生 多摩大附属聖ヶ丘
岡田大介先生 帝京中
舵取弘昌先生 武蔵
小島浩司先生 文化女子大附属杉並
小林都央先生 鴎友学園女子
小松崎和也先生 帝京中
杉山信行先生 昭和女子大附属昭和
鈴木 円先生 昭和女子大附属昭和
田島伴子先生 桐朋女子
新野好通先生 日本大学第二中
二俣潤也先生 聖パウロ学園高等学校
増山秀樹先生 早稲田実業
安永武二先生 保善高等学校
☆「所報74」のテーマは「ことば力こそ基礎学力―地下二階地上三階学力構造論の展開―基礎学力調査研究会報告書」。
☆この「地下二階地上三階学力構造論」というメタファーが、≪私学の系譜≫的な発想ではないか。学力のメタファーは、樹木や植物などの生物モデルがメタファーとして使われる場合が多い。
☆しかしアーキテクチャーモデルで論を進めるところが私学らしいのである。生物モデルでは、生まれる時代を選ぶことはできない子どもたちは、環境によって成長したりしなかったり、予定調和なのだ。
☆ところが私学は、時代は選べないが、時代を変えることはできるという共通した理念を持っている。だから、生まれた時代がどのような環境であれ、自ら成長できるように環境を変えていく力をデザインできるという意志を持っている。
☆その環境に適応できる子どもだけが成長すればよいというのではなく、すべての子どもたちが成長するにはどのような教育的デザインが必要なのかというある意味システム論的なのだ。
☆システム論とは理念なき社会理論ではないか?それは違う。すでにセットされている理念を鵜呑みにしないで、自ら理念は精査しながらデザインするという意味で、一見理念がないように思うのである。
☆理念なきデザインはデザインとは言えないだろう。ただし、デザインは理念そのものもデザインするのである。だから、本来のアーキテクチャーのデザインは、Designではなく、De-Signなのである。脱中心でもよいのだけれど、この表現もレトリックに過ぎず、文字通り受けとめて中心なきシステムがあるとするのは短絡的かもしれない。
☆ともあれ、脱記号、つまり脱構築ということである。これは、「日本文学2009年8月号」で、海城学園の中田大成先生が「解釈共同体の再帰的構築の試み―ドラマ・イン・エデュケーションの手法を用いて―」という論文で書かれているアイデアにも通じる。
☆中田先生の論文は、難解だけれど、自らの及び同僚とコラボした授業実践の再帰的構築でもあるから、迫力が違う。太宰治の「走れメロス」を素材にした授業実践の再帰的構築は、次のようなパラグラフで結ばれている。
絶対的他者としての<世界>に属する「雨」は、その本源的未未規定性ゆえに、幸運にも不運にもなりうる。そうした不条理に満ちた<世界>に翻弄されながら生きていくものが人間であるが、時として人間は<世界>に繋がり、端的な意志によって力強く生きることをなしうる存在でもある。そうした話としてこの小説を読むことが許されないであろうか。もしそれが許されるなら、そこで<世界>の本源的未規定性に心身を開き、それと繋がることの出来る人格類型は、過剰な流動性に晒された現代社会を生き延びていかなければならない現代の若者に対して、一つの有力な人格モデルを提供することになると筆者は思うのである。
☆絶対的な理念があるかどうかわからないけれど、相対的な理念という比較論に終始するのでもなく、まるで西田哲学の絶対矛盾自己同一的な言葉だけれど、「本源的未規定性」という宮台真司さんの考え方とある部分共鳴している中田先生の論考は、実に私学らしいアイデアではないか。
☆さてさて、無根拠で端的な意志、De-Sign、本源的未規定性としての理念問題は、そのような<としての>多様なしかし確固たる理念を読み解く学びの理論とそれを思考し表現することば力を発出するのである。
☆そんな小難しい事を考えて表現しても生徒は集まらないよという欲求枠は受験市場のもので、実はガラパゴス的発想。だから、フィンランド方式の本源的部分が分からないのだ。フィンランドの教育は、こういう本源的未規定性の問題をきちんと教育学で考察している。
☆欧米はおそらくそうだ。米国のようにプラグマティックに分かりやすくしている・・・、いやそれもまた嘘だろう。ローティがわかりやすいとは思えない。
☆わかりやすさを求めると同時に考えることも大事だというのはおそらく真理だと思うが、受験市場は前者のみだ。やはり高みに登って俗に還るという繰り返しがポイントではないだろうか。
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