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ハーバード大学白熱教室 自由と正義

ハーバード大学の白熱教室は、実に面白い。昨日(4月25日NHK)は、ジョン・ロックの自然状態と社会契約の合理性と矛盾を、サンデル教授は1000人の学生に問答を挿入しながら講義した。

☆ジョン・ロックの古典的自由主義が、いかにアメリカ国民の意識に根差しているのかをアピールする問答になっていたので、初のハーバード大学の授業の公開の純粋性の背景に戦略性の雰囲気が漂ったが、それにしても、現実のアメリカ社会での矛盾や葛藤はあるもののその根底には、正義に制約される自由ではなく、自由は正義や道徳をもってしても制約できないという原理が浸透していることに改めて驚いた。もちろんそれは自分勝手という意味ではなく。ともあれ、自由>正義である根本的な文化背景が明快になって、おもしろかった。

☆日本社会では、こうはいかない。正義が何にも優先なのだ。日本では、正義とは公平性であり、平等の道徳である。

☆政権交代で、それがはっきり現れている。事業仕分けは重要だが、ミッションや理念より、経済的平等性への細心の配慮がなされている。あれこそ日本国民の心に響く、細かい平等への配慮である。

☆個性化された日本。本来は個性と言うからには、そこには自由が主張されるはずであるが、個性が発揮されるには、まずは格差社会であってはならない。平等でなければという正義観が日本の文化的特徴なのかもしれない。

☆このことは、宇野重規さんの「〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)」によくまとめられている。アメリカ社会とは違い、自由<正義というのが日本の根本的な文化背景なのであろう。

☆共に生きるとは、個人の自由よりも正義を優先するということなのだ。そして宇野さんの本を読むと、正義という平等志向が、個人主義の時代でありながら、隣近所みないっしょの個性という矛盾を生み出していると。それが平等だということになってしまっているようだ。自由などという大きな物語や理念はなくなってしまっていると。

☆ところがアメリカの場合、共に生きるとは、自由を保障する限りにおいてなのだ。自由権という誰も奪う事の出来ない権利を守ろうとする個人である私が、他者と共に生きられる社会がアメリカである。日本は平等という権利が守られる社会形成が共に生きるということなのである。

☆しかし、アメリカ的な正義と自由の関係、共に生きることと個性の関係を大切にしているコミュニティが、日本にもある。それが私立中高一貫校なのである。

☆世界で活躍する越境人になるには、自由<正義よりも、自由>正義ということなのか。もっとも、私立中高一貫校の場合、自由=正義という可能性もある。時代の要請とは、そこにあるのかもしれない。私立中高一貫校の先進性、先見性の本位はそこにあるのだろう。

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