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「公立に勝てる」という表現???②

「公立に勝てる」という表現???①のつづき。

☆優勝劣敗、損得勘定というまずは自分という個人主義的な価値の物差しは、悪くはないが、良くもない。一方で社会に貢献し、幸せな社会を創造しようという価値基準も、実はそれだけでは善だとも言えない。

☆個人主義は、結果的に市場の原理のように最適化におさまるし、幸せな社会も行き過ぎると一握りの権力者にとって幸せということになりかねないリスクもある。

☆しかし、損得勘定の価値観の場合、最適化に至る過程は、格差が激しくなるし、社会は多くの人間にとっては望みたくないような乱高下。これではたまったものではない。やはりそこを安定させる社会的正義に期待がかかる。

☆ところが、この正義、政策側に有利に働いてしまうのが常だから、これまたどうしようもない。損得勘定か幸せな社会か、どっちにしても結局は、力の強い人にとって有利なのは変わらない。

☆とするならば、その力のある人間が理想を夢見、倫理感あふれる人材に育ってもらうしかない。ところが、公立学校では、それが制度上できないのである。なぜなら、文科省なる権力は時の政府の政策によって右往左往するのであり、その政策を批判することはなかなかできないのである。

☆幸せの原理より現実的な政策の優先順位が第一なのである。これは説明するまでもないだろう。しかし、ときどき確認しないと、政策変更は改善という勘違いが蔓延するものである。

☆それゆえ、公立学校はどうしても優勝劣敗・損得勘定の物差しで物事を考えたり、選択するよりほかに術がないのだ。もちろん、個人的には、その呪縛から逃れることはできる。あくまで、ここで言いたいのは、制度上の問題である。どんな制度でも自分の信念をつらぬくことが出来るだけの自由は保障されている。それがたとえ棘の道であっても・・・。

☆では、私立学校ならばすべて幸せな社会創造の精神に満ちているかと言えば、そんなことはない。やはり優勝劣敗・損得勘定の価値観をベースにしている学校もあるし、両者をなんとか統合できないかチャンレンジしている学校もある。表にあるように、A型とB型、そしてその調和をなんとかというのはAB型としよう。

Photo☆ところが、この学校価値観フォームは、だれでもが同じように脳に設置しているわけではない。いろいろな型を作りだしている。それに学校側の理念に限れば、A型、B型、C型、AB型はあるが、D型はないのである。

☆またしても、そんなバカなといわれるかもしれない。時の政権でも、幸せな社会を作ろうとしているではないかと・・・。たしかに、しかし、私立学校が目指している幸せな社会は、時の政権にとっての幸せな社会像ではないのである。

☆私立学校は各学校によって理念が違う。幸せな社会創造のあり方も違う。そのことが幸せな社会とは何か、だれにとってどういう幸せかを選択することができる状況にあるし、そのことが理念を相対化できる構造になっている。

☆このことが重要なのである。

☆さて、今度はこの学校価値感フォームは、受験生や保護者によっては多様な様相を描きだす。公立中高一貫校に対し、CD型という期待をしてしまう場合もあるだろう。しかし、当局はC型なのだ。英語教育だ、総合学習だといったとしても、国際社会に貢献する人材を養成すると言っても、それは国家のリーダーをつくるよということだ。

☆だから、世界が帝国から国家へ、国家から地球市民へと全体の歯車である個人から個人の中に公共性を包含しようという関係総体の考え方にシフトしようとしている時に、それはできないのだ。だから、ガラパゴス日本になってしまう。

☆AD型のつもりで、公立か私立かを選択しようというのも、残念がらズレが生まれてしまう。

☆私立の中でもそうだ。B型志向なのに、偏差値が高ければみんなB型学校だと思って麻布を選択したら、とんでもないことになってしまう。逆にA型だと思って桜蔭を選択したら、たまさか勝手にしなさいという雰囲気だからやっていけるが、A型への価値をふくらますサポート環境がない可能性がある。

☆それゆえ、どのような学校価値フォームを互いに形成しているかのマッチングは必要である。

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