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ハーバード大学白熱教室 自由の条件・・・

サンデル教授のJUSTICE講義、昨日(5月9日)のハーバード大学白熱教室は、カントが登場。功利主義ではなく、理性主義とでもなるのか。

☆ともあれ、自由の条件は、傾向性(本能や流行のような他者からの操作性など)によるのではなく、義務による言動、他律ではなく自律した言動、仮言命法ではなく定言命法による言動の3つがそろうことということか。

☆店主がお客に釣銭を間違いないように渡したとしても、その動機が義務、自律、定言命法を目的としているのでなければ(たとえば、間違わないようにした方が結果的に評判を呼び利益アップにつながるなどというのは、それらを目的とするのとはま逆)、自由な状況ではない。結果良ければすべて良しというわけにはならないよと。

☆しかし、学生からは、最高道徳を目的とする自分を道具として、その道具によって自分の義務と自律、定言命法を実現しようというのは、結局動機が不純ということにならないかと、表現は違っても、質問する学生たちはそこを突いてきた。

☆サンデル教授は、それは問題はないのだと。最高道徳や義務、自律、定言命法、理性にしたがうのは道徳的直観で、不純な動機ではないとカントなら言うだろうと。

☆しかし、サンデル教授自身は、当然そこがカントの限界なのだといいたいのだろう。ただ、学生は先を急ぎすぎだ。まだまだここではカントはどう考えたかを確認している段階だよと。

☆その流れは講義だから、それはそれでよい。ただ、現実は傾向性と他律と仮言命法、恣意性、操作性に充ちている。アプリオリな状態や無知のベールなどという状態から出発できない。

☆私学人が、生まれる時代や学ぶ時代を選ぶことはできないというのは、そういういことだ。にもかかわらず、義務、自律、定言命法といった理念を保守しながら、時代を変えていくのだと、1人ひとりの個性と自由を保ちながら、他者とともに生きていける時代の流れを創るのだという私学人の気概は、カントを始めとする啓蒙思想家と心を同じうしているのかもしれない。

☆カントは二元論で論を進めているが、本当は、その二極はつながっているのである。何によってか?この発想が逆転している。もともとつながっていたものを二極に分けただけなのである。

☆だから、その分裂を修復することが必要であり、分裂したどちらか一方を選ぶことではなかったのかもしれない。修復するには道具がいる。

☆道具になってはいけないのかもしれない。しかし、互いに道具でなければ、修復はできない。道具を捨てて、自由な空間を一方に片寄せるというのは、それは自由ではない・・・。互いに道具になる自由がなければ時代は変わらないだろう。

☆いずれにしても、価値は相対だよというトレンドでは、そんな義務や自律、定言命法なんて物語はフィクションなんだからとなり、カントの想定とは反対側の空間が現実を支配する。純粋理性が目的で、純粋欲望は手段に過ぎないとは、その逆もまたありなのが、現実。

☆さてそれではやはり功利主義の方が妥当ということか。しかし、カントは功利主義の正当性は認めないのだろう。

☆むしろ功利主義も理性主義も自由の条件としての道具である。その道具の妥当性のみならず、正当性と信頼性をチェックできるコミュニケーション情況こそが自由な情況だとしたほうが、≪私学の系譜≫には妥当かもしれない・・・。

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