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男女別学教育の存在意義の今

8月10日、アルカディア市ヶ谷で、「第1回男女別学教育シンポジウム」が開催される。そのプログラムの充実しているのは、次の通り。

☆プログラム

   1時30分  開会のご挨拶 
             清水哲雄(鴎友学園女子中学高等学前校長 )

  
   1時45分  基調講演  「なぜ男女別学が子どもを伸ばすのか」
             中井俊已(日本男女別学教育委員会代表)

   2時25分  シンポジウム 
             伊奈 博(桐光学園中学校高等学校校長)

             西村弘子(田園調布学園中等部・高等部校長)
            

             西川邦子(鴎友学園女子中学高等学校長)

             松本秀房(京華中学高等学校前校長)

             水谷  弘(海城中学校高等学校校長)

            コーディネーター 實吉幹夫(東京女子学園中学校高等学校校長)

質疑応答
   4時15分   閉会のご挨拶
            清水哲雄

☆今なぜ男女別学教育なのか。男女が共にいる共学校が自然でよいのではないか?という常識が浸透している戦後20世紀型教育からすれば、当たり前といえば当たり前の疑問がわいてくる。

☆しかし、一方で、多くの人が、私たちの「いま・ここ」では、もはや20世紀型の産業構造やそれを支えてきた20世紀型教育が役目を終えたのではないかとも感じているのも否めない。

☆それならなおのこと男女別学教育は、遠く明治時代のころよりあるわけだから、もはや古臭いシステムなのではないかと・・・。こう思う人は多いだろうが、それがガラパゴス日本の発想そのものであり、そこに批判的思考を機動できなくなっている教育がまさに公立共学校のシステムだったということに気づくことができないわけだ。これが困ったものなのだ。

☆なぜって?多様性がないからであり、多様性がないとポリフォニー的美学が切り捨てられているということを意味するのである。なんてモノフォニーなのだろうか。多様性がないということは、知らないうちに切り捨てているということなのだ。

☆共学校が何を切り捨てているというのか?男性であることと女性であることとである。男性としての人間、女性としての人間という多様性を切り捨てているのである。そんなことを言うと、すぐに差別じゃないかということになるかもしれない。

☆だれにとって差別なのか?いつもこの「○○にとって」が不問に付されている。なぜならモノフォニーだから、以心伝心、阿吽の呼吸でわかっているからである。同心円状に生活しているから、それをはみ出る差異という多様性は、差別なのだ。その「同心円状」の人にとっては。

☆この「同心円状」の人々こそ日本国民である。明治維新以降政府が追求してきた人間の枠組みである。この枠組みはあくまでリーガルの問題であり、20世紀の日本社会を規定してきたが、それは21世紀の時代の要請に合っているのだろうか?

☆私立学校というのは、明治維新時代から、このことを常に問うてきた。リーガル上は、日本国家にいるけれど、人間の存在としては、国家の制度をはみ出ている。

☆なな・・・何?それでは反逆じゃないか?と思った方は、ファシズム的発想である。近代日本社会のリーガルな制度は、絶対的なものではない。それは現在でも制度的違いが多くの国際問題を勃発させている事件を見れば明らかだろう。

☆近代社会が、正義と金と黄金律を分割してしまったために、国家は常に相対的な価値観のリーガルな政策によって運営される。それに対し、私立学校はより普遍性を追究してきた。理念を追究するということは、普遍主義を意味する。

☆しかし、この普遍主義とて、油断すればローカル普遍主義に陥る。だから、その危険性をリスクヘッジするために、多様性を重視してきた。この多様性の保護の最も有効な方法は、男女別学教育なのである。

☆共学の難しさは、女性のイメージを膨らませる事ができない範囲での人間形成であり、男性イメージのできない範囲での人間形成になりがちなのである。すでに範囲というチャンスが切り捨てられた状況である。

☆実にパラドクスなのであるが、共学は、メタ的に批判的思考を絶えず繰り返さなければ、目に見える形で男女がいるから、互いの理解ができないのである。

☆思考力とは目に見えないものを思考することである。目に見えないものを思考するには、理念が必要なのだ。正義が必要なのだ。相互性が必要なのだ。

☆しかし、それらが分断されるや、理念は権力のオーラに、正義は税金の配分に、相互性はお金の交換に行きついてしまう。どんなに双方向的コミュニケーションが大事だと言っても、政策戦略的コミュニケーションが蔓延する。信頼は金である。契約は金である。人間関係は金である。

☆だから、私立学校は、理念という黄金律を大切にし、正義という配分の正義と交換の正義を統合してきた。このトータルな人間形成のベースにあるのが存在意義を形成する生のコミュニケーションである。存在相互性のコミュニケーションとよんでよいだろう。

☆そして忘れてはならないことは、存在相互性のコミュニケーションのベースは離在である。離れていながら存在の相互性をコミュニケーションしあえる。それが私立学校であり、だからこそ卒業後も懐かしくなるわけだし、母校を母港とするのだろう。もっというならば、これがなければ国際的視野など持てないし、世界市民の21世紀の時代を生き抜くことはできないだろう。

☆ヨーロッパの人と話をしていて思うのは、デモクラシーとは言論の自由と人権と愛というトータルな人間存在を保障する適正な手続きの組織体なのである。

☆それなのに、日本の教育は、国家と国民がすべてなのである。言論の自由は、発展途上国に比べれば羨ましいほど保障されているが、真のデモクラシーに向けて、教育で議論のトレーニングが行われていないではないか。適正な手続きな欠損である。

☆権利とはどこから生まれてくるのか、税金を配分する権力のチェックから生まれてくる。批判的思考とは大学入試の論文を突破するためにあるのではない。このチェックのためにトレーニングが必要なのだ。しかし、そんなことは意識されていない。適正な手続きの欠損である。

☆愛とは人類愛である。性教育は人類愛の一部でしかない。家族は国家の一員を育てる装置としての愛であってはならない。人類愛の種を育てる大切な絆である。しかし、現状は家族は税金回収のための強制装置と化している。適正な手続きの欠損である。男女共学はその強制装置を受け入れる再生産装置となっている可能性があるわけだ。

☆そんなことを知ってもどうしてよいのかわからないのではないか?多くの日本人は諦念から始まるだろう。しかし、海外を見回せば、そこに抗って、良し悪しは判断しにくいが、ストがあり、抵抗があり、暴動があり、これは悲しいが戦争があり、テロがある。あるいはフランスのようにもはや核家族の価値観を壊す家族制度が出来あがらざるをえない情況になっている。

☆戦略とは操作するものと操作されるものに分断することである。この境界を超えるには以上のような方法ではなく、教育に訴える事もできるのだ。イギリスやアメリカ、そして日本は、私立学校の存在が確固としている。

☆フィンランドは教育大国だけれど、私立はあるのだろうか?フィンランドという国が、国家的雰囲気より、市民社会的雰囲気が強いから、公立学校といっても日本とはかなりニュアンスが違う。それはヨーロッパ全体にいえることだろう。

☆ガラパゴス日本社会では、世界の情勢とつながれる教育を行えるのは私立学校だけなのである。これは残念なことである。子どもたちが全員が通えないからである。日本社会にとって、私立学校を選択することは、未来の教育を平和的に支援することにつながるのである。そしてさらに男女別学教育を選択することは、未来の人材となるチャンスなのである。共学の場合は、どれだけ、男性としての人間、女性としての人間をリスペクトしているかどうかのチェックは必要であるが、そこまで選択できるものさしを持つことこそ、未来を生きる視点である。

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