私学の立脚領域の見える化
☆私立学校に通っている保護者の中に、ときどき選択を間違えたのではないかと悩まれる方がいる。もしかしたら聞くに堪えない表現をされる場合もある。
☆たいていは話をしているうちに、感情的なものは収まるのだが、なかなか難しい問題が横たわっている。
☆選択をするときに、大学進学実績や偏差値を指標に選んだ場合は、価値観の違いというより、ついていけるかどうかが悩みになるケースが多く、自分の問題として悩んで収まるから、学校に対するクレイムということにはならない。しかし、それはそれで、悩まなくていい問題で悩んでしまうのだから、問題である。
☆一方価値観が合うと思って、選んだんだけれど、そうでなかった場合、悩みは深い。この点に関して、どのように解決したらよいのか。1つは、ご自分の価値意識の再確認であり、それが変更可能かどうかということだろう。
☆それからもう一つは、入学する前に、きちんと価値観を確認しておくということだろう。しかし、現状では多くの場合、そのすり合わせは感覚的なものである。文化祭や学校説明会に行った時の雰囲気が多くの場合決め手である。
☆人間の勘というものは、下手な分析よりもずっと的中するものでもあるから、今まではそれはそれでよかったのだろう。
☆しかし、最近では、はじめから誤解をして、入学してからクレイマーになるケースも少なくない。それは、そもそも私立学校は、世界市民的正義の立場に立っている場合が多く、個人主義的な目先のことで翻弄されたりパニックになることを避ける文化や教養を好む人たちが多かった。
☆ところが、中学受験が大衆化されて、目先の偏差値や大学進学実績のことばかり気になる層も増えてきた。そうなると、どうしても価値意識の持ち場が違うと、不安になりそれがクレイムにつながることがあるのだ。
☆国家のためにと世界市民のためにという理念が、ズレ始めている今日、ますますこの状況は増えるのではないだろうか。
☆じゃあ今までの国家的正義と世界市民的正義は明確に分かれていたのかと言うと、そこがそうではなかった。むしろ未分化のまま、国家的正義の正当性、信頼性、妥当性を議論してきたのだろう。
☆しかし、帝国→国家→個人と歴史が進むにつれ、国家そのものの限界が明快に見え、その先にある、今までは夢みたいだと思われてきた世界共和国だとか、世界市民だとかいう形の可能性がうっすらとみえてきた。
☆今までは、法人として私学かどうかで、同じように扱われてきたが、これからはどうもそれだけでは困ることになりそうだ。たとえば、桜蔭と女子学院だが、桜蔭は、国家的正義において学歴社会をベースにする伝統主義だし、JGは世界市民的な正義を理念とする理想的自由主義が立ち位置である。
☆JGを選択する受験生に、日本社会の学歴社会の中で頂点を極めようという価値観を持っている生徒はかなり少ないと思うが、もしそう思って選んだら、6年間はあまりおもしろくはないだろう。
☆一方桜蔭の場合、積極的にそう思わなくても、そのように頂点を極めることをことさら否定しない感覚をもってさえいれば、6年間は楽しいものになる。ここの言い方は難しいが、日本社会を批判的に思考する必要がない。日本社会がうまくいくためにどうするかという妥当性を批判的にチェックできれば、国家的正義の内部においては、十分にリーダーとして存在できる。
☆JGの場合はどうしても国家単位を超えた世界市民的正義があるから、どうしてもメタ批判になるのである。これは立教女学院も同じだ。
☆このように私学の系譜というのは、法人として私学かどうかではなく、正義の立ち位置によって決まるわけだ。
☆武蔵などは、世界市民的正義を大前提にするが、限りなくその正義を批判し、自分の自由な立ち位置を優先するから、どちらかというとリバタリアニズムに傾斜しがちである。
☆開成からはたくさん東大進学者がでるから、国家的正義に基づいた伝統主義なのではないかと思われがちだが、日本国家を世界市民的正義のものさしで是正していこうという保守主義なのである。もし初代校長高橋是清の理念を継承しているならばであるが。
☆麻布は、学内において、自由とは何かが侃々諤々議論され続けているが、基本的には理想主義的な自由主義に収束するだろう。リバタリアニズムにも揺れるが、社会に無関心という意味での自由ではない。もしそうだとしたら、そもそも麻布の自由は何かなどと言う発想そのものがないはずだからだ。
☆聖学院も世界市民的正義を前提にしている。学内においては保守主義と革新主義のせめぎ合いが、今実に興味深い。
☆八雲学園、東京女子学園も、世界市民的正義の流れだし、基本的には理想主義的自由主義に収束するだろう。
☆海城は、かつては国家的正義を基盤としていたかもしれないが、今は世界市民的正義だし、理想主義的自由主義にパラダイムシフトを果たしている。
☆駒東は、あえて、正義の論理的前提仮説を問わずに、進んでいるように見える。
☆桐朋は、務台理作先生時代は、世界市民的正義を前提にしていただろうが、今は不明瞭だろう。
☆渋幕や渋渋は、理想的自由主義というよりは、革新主義的であるかもしれない。
☆慶應グループは、世界市民的正義を前提にし、かつては理想主義的自由主義だっただろうが、今はおそらく保守主義に位置しているのではないだろうか。革新的なことも、大学では実行しているが、どちらかというとトレンド主義で、そこの部分は国家的正義に配慮する場面もあるかもしれない。というのも大学の教授陣は、かならずしも慶應出身者ではなくなっているからである。それはオープンでよいのだが、オープンだと理念を無視してい良いという話でもないだろう。しかし、グローバリゼーションは、その理念に価値をおかなくなりがちでもある。
☆私立学校だから、1人ひとりの才能を伸ばしてくれるはずだ、だから、自分の偏差値にあった学校を選ぼうでは、最適なマッチングとは言えない。
☆もし、自分の才能だけに関心があるならば、リバタリアニズム傾向の学校を選べばよいのである。そのような学校は私立か公立かどちらに多いかというと、実は日本の場合はどちらも少ないかもしれない。
☆ハーバード大学のサンデル教授の白熱教室がNHKでも公開されているが、なぜ今正義論なのか?それは国家がではなく、個人が判断しなければならないことが多くなってきたからだろう。偏差値とか大学進学実績とかは、自らが作れる評価基準ではない。自らが判断できるためには、自分の価値判断の立ち位置を振り返らねばならない。どれが正しいか、それはコミュニケーションの中からしか生まれてこない。表現力の時代と言われて久しいが、それはそういうことなのだ。
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