ベネッセの受験と教育一元論
☆ついにきたなぁ。ベネッセの児浦氏(といえば私立中高一貫校の多くの先生方は知っている)の信念の形ができた。
☆それは東大生20人ぐらいとプロジェクトを組んで、数学と英語の受験道場を組み立てたことなのだが、いわゆる受験勉強プログラムではない。同時に教育プログラムにもなっている。受験と教育の一元論を形にしたのである。
☆ベネッセは、公立高校のビジネスにおいて、誰もが知っているように独裁的覇者である。しかし、首都圏の私立中高一貫校には、本格的にのりだしてこなかった。
☆それは経営戦略として妥当なのである。公立学校は、学習指導要領ベースの非多様性カリキュラムである。したがって、偏差値輪切りという多層性はあっても、質的多様性はないから、教材やテストは実質一本でよいのである。そして同じものを使っているのだから、大量処理が安価にできる。それがベネッセの収益戦略である。
☆ところが、私立学校というのは独自色が濃く、あまりに多様で、それに対応していくことは、教育的チャンレンジとしては非常に価値が高いが、コストという価格価値は儲かることはない。商売の基本は、近江商人ではないが薄利多売である。私立学校の多様性を追いかけると、薄利少売どころか、持ち出しがでてしまうだろう。
☆そんなことは外から見ていてもわかるから、経営的には手を出さない。私立学校が独自に教育の中で解決するのだから、それでよいのだと。
☆しかし、そこにはベネッセが欲しい智慧がある、ソフトがある。この構造を解明することは、ベネッセにとってはもちろんだが、ベネッセが教育貢献をする大きなチャンスである。
☆しかし、費用対効果のあがらないものはやらないのが、リーズナブルな経営判断だ。ところがだ。この制約こそ、ベネッセの本当の戦略なのである。優秀な人材はこの厳しい制約の中でこそ創意工夫をし、できないと思われることを通すのである。
☆私立学校がどんなに多様な教育をやっていても、受験勉強は実は単調だから、そこはベネッセのリソースを接続できるではないか。
☆そして、ここが肝心なのだが、多様な教育は教師がやって、受験勉強は教師以外のスタッフが指導するという二元論を克服しなければ、私立学校には通用しない。エイ!両方をつないでしまおう。それはいかにして可能か?
☆そこで東大生軍団の形成だ。東大生が指導するから、私学もそのプログラムを活用してくれるだろうなどという発想ではもちろんない。そんな浅薄な理屈は私学には通用しない。
☆実は児浦氏がやったのは、多くの東大生の思考過程や記憶の技術の見える化なのである。東大生と最初話していると、たしかに賢いから、回答が過程をワープしてスッとでてくるのである。なぜそういう回答がでたのか?と尋ねても、できたんですよねで終わる。
☆そこをそれで終わらせずに、問いかける。しかも東大生がたくさん集まれば、それぞれ違う考え方がでてくるから、その違いについて考える問いかけをする。さすがに賢いから、その違いを考えるなどというテーマには食らいつくのである。
☆そしてこの過程そのものを、高校生と共有するというプログラムをつくる実験をずっとやってきたのだという。その結晶の一部が、ようやく公開され始めた。数学道場は、お茶ゼミで行われるようになっている。もちろん児浦氏が発見・開発したプログラムのエッセンスの10分の1ぐらいしか実践されていないだろうが。
☆それから田尻悟郎先生とのジョイント英語研修。児浦氏のすごいところは、東大生の頭脳だけではなく、田尻先生の頭脳も見える化しようとしているところだ。この新たなチャンレンジの結晶は、まだ公開されていないが、そのうちされるだろう。
☆で、どこが受験=教育の一元論なのか?と。この東大生や田尻先生の頭脳を読みとる児浦氏の視点そのものがそうなのだ。この視点を東大生もトレーニングをうける。すると、子どもたちの認知の過程を読みとれるようになる。認知の過程とは、解き方の過程ではない。なぜ興味をもったのか。今の表情から、どこらへんで躓いているのか。その躓きは日常の生活の他の場面でもでてこないか。なぜその言葉を選んだのか。別の言葉ではなくその言葉を選ぶというところに錯誤しやすい傾向がみられるな。キーワードの選択の仕方が変わってから、思考の速度がアップしたな・・・などなど。
☆このような認知過程の視点は、解き方の過程の視点をもちろん含むが、その広がりと奥行きはもっと広い。ポートフォリオをつくって、振り返るような雑駁な視点でもない。
☆この認知過程の視点は、どのタイミングで何を選択するかというJUSTICEの問題で、認識論的判断をしているのか、道徳感情的判断をしているのか、美学的判断をしているのか、読み解くリテラシーである。問題の解き方の解説は、認識論的判断の枠組みの一部にすぎない。
☆多くの子どもたちは、そんな言葉を使わないが、問題を解くときに、3つの判断を意識しないでするから、ショートする。そこを整理することができるようになれば、人間として魅力がでてくる。
☆よく主観的な思いはおさえて、客観的に考えようなどというアドバイスがあるが、たしかに間違いではないが、入試という条件ではそうだが、生活の中では、そうはいかない。主観の大事にされないところで、個性なんて本当は育たないのだ。
☆従来の受験勉強は、その全体的な判断システムを理解しないまま、認識判断のしかも客観的な領域のさらに誰かが発見したルールの確認をする領域という部分を考えること全体だという幻想を作りだすことに終始していた。
☆だから、従来の受験勉強は、教育的ではないのである。しかし、ともすれば、教育は全人教育をこんどはその小さな部分にただ置き換えて、ここに魂がないと言って断罪していた場合もあった。
☆教育とは、判断の総体を理解できる人間を育成することであるならば、そしてその了解度がアップすることが成長だとするならば、やはり児浦氏のねらいは受験=教育一元論ということになるのではないか。
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