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實吉先生の「未来から視るコト」

☆昨日、「私立中高の挑戦 未来の教育を創る」の番組収録で、實吉先生(一般財団法人私立中学高等学校協会副会長、東京女子学園理事長・校長)にお会いした。協会が時代の閉塞状況をどのようにとらえ、乗り越えようとしているのか。

☆その1つの実践が、およそ20,000人集まった東京私立中学合同相談会(5月8日)という新たなチャレンジだった。それはなぜかなどなど対談した。内容については、番組をご覧いただければ幸い。

☆番組を収録・編集していておもしろいのは、実はその前後の打合せで、いろいろな話をお聞きできることだ。

☆實吉先生から話をお聞きしていると、私学人とは未来からの視野で、時代を捉えているというのがしみじみ伝わってくる。

☆しかし、なぜ未来からのパースペクティブが想像できるのだろうか。ある意味直感的な部分もあるのだが、想像力とは構想力、つまりデザインであるから、コンセプトがないと生まれてこない。

☆そのコンセプトは別の言葉で置き換えれば理念ということなのだ。實吉先生は私学人として、子どもたちは未来にあって幸せでなければならない。私立学校はサバイバルしなければならないとか気負う必要も、トレンドに右顧左眄して翻弄される必要もないなのだと語られる。大事なことは、子どもの幸せの全体像を結ぶ想像力なのだと。

☆教育政策は10年単位で変わる。子どもたちのためにではなく、政権の利益のためである。そのために教育の平等なアクセスはつくる。しかし、真に平等なクオリティ・エデュケーションというビジョンはない。

☆どんなに良さそうに見える政策も、政権の利益がちらつけば、それは妥当性はあっても、正当性はない。政権が代われば、政策も変わるでは、子どもの幸せの全体像は結べない。

☆もっとも、ハーバード大学のサンデル教授に言わせれば、そのような全体像を結ぼうとするのは、普遍主義であり、ルソーやカントの系譜である。片方で、政権が代われば政策も変わってよいという考えか方もある。それは功利主義、ベンサムとミルの仲間であると。

☆私学人は、どこか近代啓蒙主義の系譜に属するのかもしれない。そんなのは古いのでないかと言われる人もいるだろうが、おお!ベンサムということになる。

☆アメリカの民主主義のベースは、今も立派に啓蒙主義。もっとも、ミルは最後の功利主義的計算の基準は、黄金律だから、啓蒙主義的要素がないかといえば、それは難しい。

☆時代の閉塞状況は、功利主義か啓蒙主義かどちらのせいだという話ではどうもない。どちらにしても考え方の違いは、基準の設定の仕方なのだ。絶対的定言命法に従うのか、限りなく相対化する仮言命法に従うのか。

☆時代の閉塞状況は、そもそもそのような基準を捨てることからやってくる。自分の興味と関心のあることに従って(それも基準だが)、選択していけばよいのだという、ポストモダン的発想・・・。生産と消費のサイクルで翻弄されているだけであるのに・・・。そのサイクルを超えることこそ閉塞状況を打破すること。

☆實吉先生が、女子校は女子の声を育てるのではないのだよ、人間の声を発せる子どもたちを育てるのだと語られたとき、その人間とは何かという理念という基準が未来が養成するものにマッチングしていないとねということだと理解した。

☆私学人にとって、教育は、だから常に未完のプロジェクト。変わらないけれど変わるのだ。

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