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今、私立学校選択が正義なわけ。

☆アメリカの大手銀行から地方銀行へ預金を移すMove Your Moneyの運動、普天間基地を取り囲み闘う沖縄の人々の「人間の鎖」のデモなど、これはみな正義の問題である。

☆正義というと月光仮面やウルトラマンのような正義の味方を思い浮かべるかもしれないが、公平性、つまり平等という侵害できない人間の権利のことを示唆する。

☆そして、公平性や平等を判断する正義の基準が何かが問われるわけだ。

☆しかし、安心・安全という名の大企業や国家に依存していたのでは、この正義の基準が他律のままである。正義の基準の自律への回復、正義の規準を問い返すことができる能力の回復を叫ぶ時代の要請の声が聞こえるのが、先にみられるような事件なのである。

☆正義とは公平性や平等の選択判断基準の問題ということになれば、日常生活いたるところにその判断する機会はあふれていることに気づくだろう。たとえば、商品を買う時、お金を支払うが、そこには相互性がある。ということはここに公平な取引がなければならない。ネットショップを手軽にやっているが、ネットショップのすごいところは、同じ商品でも価格が違い、どれが適正か選択できるシステムになっているということ。

☆それから、裁判員制度も実施されているが、有罪か無罪かを判断するときにも基準が大事であるが、有罪の場合、量刑を判断する基準も大事なことである。つまり、正義の判断を要請されるのだ。

☆この判断の自律と相互性の適正な関係を保つことが正義なのである。

☆さて、自律と相互性といえば、最もこのキーワードが日常化しているのは、学校である。自律した個が成長し、最適な相互性という人間関係を形成し、公平な判断をしていけるようになる教育の場は、現在では学校教育が大きな役割を果たしている。

☆沖縄の人々が、もはや国との距離を置こうとしているのは、公平な判断が自律して行えなくなっているからだ。だから権利の闘争をしているのだ。もし国が考える支援に安易に乗れば、将来ツケが回ってくるというのだろう。

☆軍事基地建設による経済活性化ではなく、ビンガタとサンゴとジュゴンをアートに変えて、世界的文化交流基地による経済効果をあげたほうが、自律と本当の意味での相互性を貫徹できるのだ。

☆このことは教育においても同じである。おそらく、ほとんどの人は、Move Your Moneyの運動と沖縄の問題は結び付かないだろう。なぜ私たち日本人が大手銀行に頼っていたのでは、沖縄問題を解決するお手伝いができないか。そういう公平性の判断ができなくなっているのが、国家に依拠している公立学校の教育なのである。

☆特に90%以上は公立学校である。公立学校の背景にある国家的正義の正当性や信頼性、妥当性を問うことは国民はほとんどできない。その機会はない。つまり正義の判断の自律が出来ない文化資本再生産システムになっているのだ。

☆唯一問い返せるシステムは私立学校なのである。しかし、私立学校の中には、理念に反して、実質的に大学進学実績や偏差値を大事にせざるを得ない教育になっているところもある。これは自律した正義の判断ができないことを意味する。

☆かくして、学校選択とは、NHKで公開されているハーバード大学のサンデル教授の授業「JUSTICE」と同じ問題性をシェアしているのである。

☆保護者が子どもの未来のために闘う場所は、沖縄以外にも日常の中に山ほどあるのだ。そしてそこでの闘いが沖縄問題解決にもやがてつながる。

☆商品を購入するとき、学校を選択するとき、政治家を選ぶとき、裁判員になったとき、ファインナンスのプランを立てるとき、税金を払うとき、ゴミを捨てるとき、進路を選択するとき、コミュニケーションするとき・・・。自律と相互性の最適化を選択する基準。これこそ理念なのだ。学者が、大きな物語は失われたとか、言葉の故郷が失われたとか、理念なきポストモダンとか言うとき、その言説は、国家や文科省頼みの自律できない束縛された研究生活を反映しているアイロニーに過ぎないのかもしれない。

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