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「新しい公共」円卓会議の背景

☆菅新政権に移行する瞬間、6月4日、「新しい公共」円卓会議が開催され、そして終了した。政府によるのでも官僚によるのでも企業によるのでもない、市民による公共性を作ろうよという「新しい公共」宣言がされ、いったん終わり、新たなスタート地点に立った。

☆内閣府のホームページに入れば、資料から動画まで掲載されているから、なかなかおもしろい。さすがは、座長が金子郁容さんのことだけはある。

☆この会議のメンバーには、金子郁容さんと考えを1つにする人材が多いのだろう。文部科学副大臣の鈴木寛さんもそうだ。

☆ここには顔を見せていないが、資生堂の福原さんもメンバーだということは、松岡正剛さんのグループも背景にいるということだろう。金子さんや鈴木さんもすでにそうであるから、そうなのだろう。

☆ということは、この流れは、当然教育に関しては、コミュニティースクールにつながっていく。

☆高税金高寄付(このダブルバインドを解決するのが税額控除の発想だろう)によって成り立つ社会の形成には、コミュニティースクールによる教育がないと実際にはうまくいかない。

☆菅新政権になっても、文科省の行政は変わらないから、この流れは政治力を増すだろう。

☆子育て支援や高校無償化のねらいは、そこにつながっている。民主党政権は、おそらく欧州の方向に向かい、社会福祉によって成熟した国家をつくることに専念しているのだろう。似て非なるものではあるが。

☆仙谷さんは、日本には市民社会がないと言われているがと会議で述べているけれど、たしかにそうだ。で、これから作っていくかというと、それはどうも怪しい。

☆今回の「新しい公共」円卓会議も市民の手によってできあがったものではないし、この程度の会議は、別に内閣府の枠組みでやらなくてもできる。すでに湯浅誠さんなどは、政府と協働しながら社会運動を起こし、実はなかなかうまくいかないことまでも経験している。

☆「新しい公共」宣言は、新しいものではないというのは、宣言文の中にも盛り込まれている通りだが、古いということではなく普遍的ということだ。この精神を盛り上げようというのだから、円卓会議の精神は高邁である。しかし、ちょっと考えればわかることだが、このタイプの普遍的精神を政府や官僚が主導できるはずは、始めからないのである。

☆円卓会議自体は、内閣府がそもそも主導だから、本当は「新しい公共」の概念は実現できなくて構わないのである。

☆金子さんや松岡さんグループもおそらくそう思っているだろう。だから、この会議自体は、税金システムの再構築とその新しい税金システムをサポートする教育の再構築がねらいで、それによって、市民社会をつくろうなどという話ではない。

☆今の国家より社会保障が充実した成熟国家になるほうがましだと民主党は考えているのだろう。多少欧州よりになる。しかし、英米的流れできて、市民なき功利主義の部分のみ受け入れてきたかつての日本社会がうまくういかなかったように、市民なき社会保障社会もまたうまくいかない。「市民」が大事なのに、それが存在しないのだから。

☆どんなに円卓会議がオープンにされ、つぶやきが動員されても、市民との議論の場は設定されない。そして、それはなぜか?やはり、市民という概念が現実化していないし、議論ができるようになる教育がないからである。

☆議論とは、デモクラシーの大きな1つの柱であり、別の言葉でいえば、表現の自由である。宣言文には、「議論」は一か所つかわれていたが、「民主主義」も「表現の自由」も出てこない。

☆どうしてか?そんなパラダイムではないし、言葉が古いからというだろう。それゆえ、古くて新しいはずの普遍的な「公共」についても本気で考え抜かれているわけではない。

☆社会保障成熟国家の方針は、普遍的な精神を大事にしている私立学校にとっては、リスクをはらんでいるかもしれないということを忘れてはならないということなのだ。

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