デュシャンと順天の長塚校長
☆「デュシャンは語る」(ちくま学芸文庫)を読んでいて、ふと以前本ブログでご紹介した順天の長塚校長の学習モデル(今後「長塚モデル」と呼ぶ)とデュシャンが結びついた。
☆当時、デュシャンは、そもそも画商が牛耳っている美術館が、自分の作品展を企画するはずはない。なにせ儲からないからねと言っていた。今ではまったくそうではないだろうが、1970年前後までそう言っていた。
☆しかし、それは極めて新しい発想と造形だったからこそで、今ではデュシャンの作品をどのようにとらえるべきか議論は尽きないし、20世紀の芸術概念を突き破っていたわけだから、デュシャンを語ることは、21世紀を語ることになるだろう。
☆同書の中で、デュシャンはチェスについてこう語っている。
チェスのひとつのゲームは、視覚的・造形的なひとつのものであり、静態的な意味では幾何学的とは言えなくても、動くのですから力学的なものでもあります。それはひとつのデッザン、メカニックな現実です。駒はそれ自体としてはたいしてきれいなものではありませんし、ゲームの形式にしても同じことです。でも、きれいなのは―≪きれい≫などという言葉を使ってよければ―運動です。だからそれは、たとえばコールダーのモビールのような意味で、まさにひとつのメカニックなのです。確かにチェスのゲームには、とくに運動の領域できわめて美しいものが存在します。しかし、視覚的な領域には、まったくありません。この場合、美をつくり出しているのは、運動の、あるいは身振りの想像力なのです。それは完全に頭の中のことです。
☆これは「チェスのプレイヤー」という作品を描くにあたって、デュシャンがゲームとしてのチェスについてのアイデアを語っている箇所。
☆いわば学びの過程の中でのデュシャンの脳神経の動きそのものである。この脳神経の動きは、20世紀型の学びの過程とは違う。チェスの駒の動きとそれに繋がっているプレイヤーの脳神経の動き全体をチェスとして表現しようとしているからである。
☆つまり、20世紀型の学びだと、チェスの系統的ルールや駒の美しさ盤の美しさという経験的なものがポイントになる。しかし、21世紀型の学びはその背景にある人間とチェス盤での脳神経を媒介とする動き全体を追究するということになる。
☆この学びの考え方は、まったく「長塚モデル」に一致するのではないだろうか。
☆そういえば、デュシャンの「便器―泉」という作品について語る時、好奇心旺盛になる生徒とそうでない生徒に分かれるし、先生方も、おもしろがる先生と眉間にしわを寄せる先生とに分かれる。21世紀型か20世紀型か、彼らの思考様式が表れる。
☆もちろん、21世紀型の思考様式をもっている才能者の偏差値が必ずしも高いとは言えない。20世紀型の思考様式の生徒は、きっちり系統的な学習を行っている場合、偏差値は高くなる傾向にある。もちろん、筆者の体験上の話に過ぎないが。
☆しかし、21世紀型のタレントを見逃さないためにも、デュシャンについて語ることは大事かもしれない。
☆すでに、こんな話を桐光学園もまた特別授業である「13歳からの大学授業」で行っている。
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