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早稲田大学帰国生入試終了 帰国生と通信制高校生から見える本質

☆昨日3日、早稲田大学で帰国生入試が行われた。ここ最近、同大学では学部ごとではなく、ほぼすべての学部が共通問題を出題している。私の関心のある小論文試験もそうで、帰国生は同じ問題を考えたわけだ。

☆目指す専門が違うのに同じ問題を出題するというのは、専門知以前に考えてきてもらいたいファンダメンタルなというか本質的なというか、そういう意味で基礎的な問いかけが行われているということを意味する。

☆今年のテーマは社会力である。テキストは、門脇厚司氏の『社会力を育てる―新しい「学び」の構想』(岩波新書2010年5月)であるが、結局は時代が求めている、定型的な知識を利己的利益のために活用するのではなく、利他的な構えでコミュニケーションしながらお互いに共有できる知を創出しながらいっしょに生きていく社会力を問い返す問題で、教育学だけの領域の問題ではない。いわば学際的領域の問題。

☆文章それ自体は、平易だし、近代の矛盾を乗り越える社会力について筆者の考えをまとめるのは、難しくない。しかし、帰国生にとって重要なことは、その社会力を、具体例を挙げて説明するという点だ。

☆この具体例は、帰国生の体験に基づいているものであることが必ずしも条件ではないが、もしかしたら出題側は、それを期待しているかもしれない。異文化の中で生活していた帰国生こそ、そこで社会力を育てていかなければ、サバイバルできなかっただろうからだ。

☆非常に重要な問いかけ。というのは、近代産業社会の制度に従えば、門脇氏の言葉で言う「利己的人間神話」に沿って悠々自適に生きていくことができるのである。だから、制度を学び、制度を活用する職業が溢れている。

☆ところが、よくよく考えてみれば、制度=利己的人間の救済ではないのである。それは「神話」ということ。もともと近代制度は、排除された人間を救済するルールの創造の歴史であったはずである。

☆しかし、近代制度は、危害を加えなければ是非を問われない。だから、他者によって排除された人間を救済しなくてもよいのである。すると、経済効率主義的な利己的人間であってもなんら問題ないのである。利己的か利他的かは、理念の問題なのである。

☆だから、社会力とは制度の問題ではなく、理念の問題であり、それを共有できるコミュニティをどれだけ作り上げるかという力であり、信頼形成力の問題でもあるのだ。

☆21世紀にはいって、たしかに利己的人間神話はまだ終焉していない。しかし、そろそろ利他的に生きる理念が本格的に問い返されはじめているのも確認するまでもないだろう。

☆しかし、しつこいようであるが、理念は制度であり制度を超える存在なのである。制度であることにとどまることができない。帰国生の生活というのは、異文化間で制度が違う事をいやというほど見せつけられるが、そこでサバイバルするにはコミュニケーションという制度であり同時に制度を超える対話の本質に立つことなのである。

☆早稲田大学の帰国生入試の小論文は、入試という制度の中で、制度を超える問題を出題している。これがグローバリゼーションだとか、フラットなコミュニケーションとかいわれる本質的な層なのであろう。国内の一般入試では問われない部分ではある。

☆もちろん、門脇氏の文章は国内の一般入試でも活用されるだろう。しかし、その問いかけは、あくまでも国内制度内での社会力の話しであり、社会力が制度を超えられない。だから、ファンダメンタル層には届かない、テクニカル層で十分な小論文試験になるだろう。あるいは単なる現代文の問題で終わってしまう。

☆このような一般入試制度の枠組の中で生きていると、ガラパゴス化や利己的人間神話化されていることに気づかない。

☆帰国生は、そういう意味ではアドバンテージが高いわけだ。しかし、まったく同じような構造でありながら、排除されている同世代がいる。それは通信制高校生である。制度化された社会力とは違う本質的な社会力を望むがために、排除されてしまう。帰国生はその本質的な社会力を有しているがゆえに、その影響力を望まれる。

☆しかし、通信制高校生の場合は、それを持っているがゆえに、制度から排除されてしまった自分史を過去に持っている。

☆よくへんな先入観があって、通信制の生徒は社会性がないなどといわれる。これは帰国生のことをちょっと変わった人間が多いというのと同じ構造である。あるいはシュタイナー学校に通っていることにたいし、同じようなことをいうのに似ている。

☆負の排除か正の排除か、あるいはスケープゴートなのかトリックスターなのかの違いはあっても既存の制度から排除しようとする構造はいっしょなのではないだろうか。

☆だから、もっとも悲しいのは、世の中から排除されるというより、自分が所属している組織から排除されるという事態なのである。

☆どういうことかというと、帰国生が所属する学校や予備校で、きみたちは日本の制度に合わないのだから、合わせられるようにしてあげるねというような組織があるのである。物理的には排除されないが、精神的にはすでに本質的社会力を隅に追いやられるのである。そんな学校や予備校があるのである。

☆通信制高校生も同様のことが言える。制度的組織から排除されてきたのは、制度的社会力を持っていないからだ。だからその社会力を回復してあげるねとやさしくささやかれる。そこにはコミュニケーションがあるから、物理的には排除されないし、もう排除されたくないと自分でも自分の本質的社会力を内面の奥に沈めてしまうのである。そんなサポート校や通信制高校もあるのだ。

☆しかし、このような排除される生徒をケアしようという組織は、ケアすることが認められている制度があるために、自分たちは、排除する側と同じ仕掛けを持っているということに気づかない。

☆互いに気づかないのであるから、どうしようもない。このような組織の中では、生徒たちは結局自己責任という名で苦しむことになる。

☆ところがだ、その苦しみに耳を傾ける私立学校や予備校や通信制高校があるのである。大学受験を前面に出そうとしない私立学校(大学受験を前面に出す私学も残念ながらある)は、学校制度を受け入れながら、制度を乗り越える理念への意志があり、それを生徒との対話の中に染みわたらせることができる。

☆予備校ではあるが、制度でがちがちの大手から流れてきた生徒の本質的な悩みに耳を傾ける小さな帰国生のための予備校もある。そこは、大手予備校に通いながらも、そこで耐えられなくなったときの癒しの空間として併用される場合もあるぐらいだ。

☆通信制高校で、あいさつができないのは、あいさつしたいという気持ちが強いからできないという生徒の心理を了解できる学校があるのである。ただただ企業研修を鵜呑みにして機械的にあいさつをするような挨拶の仕方では、あいさつそのものが制度になってしまう。そんなことはしない通信制高校がちゃんと存在する。

☆早稲田大学の帰国生入試の日、なぜかそういう本質的社会力育成を実践している私立学校の先生、帰国生予備校の先生、通信制高校の先生と話すチャンスがそれぞれあった。感慨深い。

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