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私学人 時代の要請を受けとめられる教養エリート[02]

私学人 時代の要請を受けとめられる教養エリート[01]のつづき。

☆ロンドン芸術大学大学院チェルシーでファインアートを学んでいる知人からスカイプで連絡があった。ファインアートのスタジオでひたすら自分の作品を創ることに精を出しているのかと思っていたら、どうやらそればかりではなく、文献を読んで、エッセイを書いて、プレゼンをしての日々だということだ。

☆ファインアートは結局は言語というか思想なのだという基本的な発想がチェルシーにはあるらしい。日本の美大ではそういう現代思想や政治的なことに興味がなくても成立していたが、どうも英国は違うという。

☆それがよいのかどうかは、まったくわからないが、ドイツ人はめちゃくちゃやはり哲学の話は好きらしい。インド人は、シンプルに国民や政治の前に人間の条件を論じ合うという。韓国人もとにかくよく話すという。日本人はというと少ないということもあるが、どちらかというと制作に精を出す。

☆韓国の院生は、院の多彩なワークショップに胸躍らせてあれもこれも参加したいと明るくポジティブでなかなか日本人はついていけないそうだ。

☆もちろん、個性の違いで、国民のキャラクターの違いとばかりはいえないだろうというと、それがそうでもないのだと。アイデンティティや世界観に関しての議論は、繊細なので互いに配慮しながらもガンガン議論するらしいが、結局は宗教というもの抜きには無理で、日本人はどうしても話についていけないと。

☆そんな話を聞きながら、で何か用があったから連絡してきたのだろうと問いなおすと、そうそうチェルシーのあるレクチャーで毎週リーディング・リストが配布される(メールで配布)のだが、あまりに膨大で、エッセンシャルというカテゴリーのものだけ、なんとか読みたいと思っていると。ただ、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」は英語の問題ではなく、思想的な背景や文脈が欠落しているから読みにくいから、日本語訳を送ってくれないかということだった。

☆コンテンポラリーアートとフランクフルト学派がなぜつながるのかと逆に尋ねてみると、芸術と政治やイノベーションの問題は関係があり、そこは意識しておかねばクリティカルシンキングができないのだということのようだ。

☆芸術ってクリティカルシンキングだったのかとこちらはハッとしたとたん、いやいやそういう捉え方が周りからされてしまうから、問題なのだということを考えておかねばならないと。

☆ナチがバウハウスを抑圧しつつ懐柔したが、そういうことは国家は平気でするのだと。ロシアのアバンギャルドもそうだったし・・・と。

☆良い悪いは別にして、メッセージやコミットメントは表現である限り、見る側に好き勝手に感じとられる。表現はそいれでよいのだが、権力の道具にだけは成り下がれないのだと。そこが商業デザインとの違いかもしれないと思いながら、なるほど受験市場と私学市場の違いに通じるものを感じながら話を聞いていた。

☆それにしても今もベンヤミンとは!というのもベンヤミンはフランクフルト学派の第一世代で、第二世代がハーバーマスである。それにハンナ・アレントはベンヤミンと親和性がある。

☆つまり、鈴木寛副大臣のマスコミで語らない思想の背景にあるハーバーマスとかハンナ・アレントとかはチェルシーでは基本書として読み、当然読むだけではなくディスカションしているのである。そこに参加している40%は中国出身、韓国出身の院生で、彼らは侃々諤々やっているわけである。

☆日本では、鈴木寛副大臣の言うことは、建前ということにして(そういう意識もおそらくないだろう)で、目先の利益について喧喧囂囂やっているわけである。それはそれでやらないよりははるかに発展的ではあるのだが、何かが違う。。。

☆そんなことを感じながら聴いていると、ベンヤミンの論文やエッセイが集められている「イリュミネーションズ」というその本の序文は、ハンナ・アレントが書いているから、そこも読んでみると。つながった。

☆大衆のニーズの背景にある時代の要請の声を聴き取ることが、21世紀型市民であり、そのようなグローバル(時代の要請をベースにするという意味で)な教養エリートが求められている。経産省や文科省が躍起となっているグローバル高度人材エリートは、所詮はテクニカル層の話であって、私学人が育成しているグローバル教養エリートは、ファンダメンタル層であり、ハンナ・アレントの見果てぬ夢である「基本的共和国」の形成者である。

☆「革命について」(ちくま学芸文庫)の中で、このような本物エリートについて、アレントはこう語っている。すずかんさんの心境と共通点もあるかも・・・。

問題は、人民全体が参加できるような公的空間、そしてそこからエリートが選択される、というよりもむしろエリートが自分自身を選択することのできるような公的空間が欠如している点にある。いいかえれば、問題は、政治が専門職業(プロフェッション)やキャリアになっていること、したがって、「エリート」が、それ自身はまったく非政治的な基準にもとづいて選ばれていることにある。本当の意味で政治的な能力の所有者がまれにしか自己主張しえないのはあらゆる政党の性格からきている。そして特別に政治的な能力が、徹底したセールスマンシップを要求する政党政治のくだらない策動の中を生き抜くのは、さらにまれなことである。・・・・・・・自分自身を組織した人びとは、自ら気を配った人びとであり、自らイニシアティブをとった人びとであった。彼らは、革命が開かれた場に連れ出した、人民の政治的エリートであった。

☆スカイプの向こうで、もう夜中の2時だから寝ることにするけど、明日はベンヤミンを読むべきか、デビット・ハーベイについて議論するワークショップに参加すべきか、まっ夢の中で決めることにするということで、スカイプは以上終了と相成った。

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