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開成の生田先生に学べ[01]

教職大学院の院生募集がうまくいっていないという。要するにその役割の重要性が認知されていないということだろう。

☆教師の質向上は重要であるが、そもそも時代遅れの「学力低下論」「脱ゆとり教育論」が前提とされたあり方そのものが時代錯誤だったのだ。その前提をクリティカルシンキングする教育関係の大学人に出会ったことはほとんどない。

Ikuta

☆時の政権の教育行政に依拠してあるいは株式会社が見越して作ったというのが本当のところで、子どもや学生の人間力を真剣に考えようなどという思想があって、作ったとは到底思えない。

☆人間とはそもそも何か?それはコミュニケーションの自由を謳歌できる動物である。それなのに、この部分を大いに軽視して、教育は行われてきたのだ。携帯電話やインターネットの対応1つとっても、そうだ。闇雲に規制をかけることが道徳だと思っている。

☆それはコミュニケーション行為を制限する行為である。制限する行為と自由を守るルールとは違うのである。ルールは自由をサポートするものであり、制限するものではない。

☆豊かなコミュニケーションこそ多様な才能を豊かにし、社会を幸せにする。と言ったら、いやいやなんでもかんでも自由にしたら社会の秩序が維持できなくなるという反論がすぐにもでてくる。

☆自由と社会は葛藤を起こすことを前提とした道徳論者は、その守ろうとする社会が人間を疎外しているだけであり、疎外は一部の人間の利益になることが目的とされているということをわかっていないのか、とぼけているかどちらかである。

☆互いの自由を尊重できる社会の秩序は、自由vs社会という前提を無化することぐらい、素直に認識できる教育関係の大学人がなぜいないのか。そういう社会から庇護されていないからである。官尊民卑とか学尊民卑の権力構造に絡めとられているから仕方がないが、「それにもかかわらず」という自由人であってもよいはずではないか。

☆こんな「裸の王さま」の話をしていてすっかり枕が長くなってしまったが、言いたいことは、「にもかかわらず」という自由人が、教職大学院ではないところにいるということだ。

☆MITラボのスタッフはたぶん多くはそうだろう。私が知っているのはシーモア・パパート教授くらいだが。ハーバードには、ハワード・ガードナー教授やダニエル・ゴールマンがいる。フランクフルト学派のハーバーマスも健在だ。

☆そして開成には生田清人先生がいる。筑駒や麻布にも同じ志をもった先生方がいる。

☆このような人々、サイードやアレントが言う意味での知識人に教育の意味と方法を訊ねなければ、21世紀型教育など組み立てることはできない。

☆アレントはスプートニックショックの次の年に「人間の条件」を出版しているが、宇宙の時代に際し、脱地球の時代という表現に疑問を投げかけた。地球は脱しられなければならない何かがあるのかと。脱したら人間の条件は変わってしまうのかと。

☆人間の条件は変わらないが、それを満たそうという認識や活動がないから、脱地球によって満たされるというのならば、地球上で満たせばよいのではないかと。その前に人間の条件とは何かを考えようよと。

☆このことは、啓蒙思想家(論者によって違うけれど)の思考の続きだし、プラトン、アリストテレス、トマス・アキナス、カント、ヘーゲルの思考の継承でもある。私たちにとっては、ピアジェやヴィゴツキー、コールバーグの思想の継承でもある。もちろん、エリクソンやデューイ、リチャード・ローティ、フロイト、マズローなどもそうだ。

☆これが≪私学の系譜≫でもあるのだが・・・。結局、人間にも組織にも、ダイアローグ的なサイクルや発達段階の発想を構築していく共通点がある。しかし、その現れ方はそれぞれ違う。

☆現状の企業もあるのではないかと、近代国家もあるのではないかと。道具的段階の成長やイノベーションはあったが、次の段階への発達がないのが大きな違いである。アレントはスプートニックショック以降の冷戦の競争を正しく予言していたのだ。脱地球とは、結局道具段階という次元内での競争に過ぎず、次なる人間の条件へシフトすることでさえないのであると。

☆文科省の副大臣鈴木寛氏が今なぜハーバーマスやアレントなのかと問い返すのは、氏自身は、自ら≪私学の系譜≫の中で体験してきたことの証明でもあるのだと思うが、政治というのはそういう公共的な思想を認めないパラドクスがあるから、今後どうなるかわからないが、ともかく民主党自体というよりも政権交代という事件そのものは時代の要請の体現であることは確かなようだ

☆そして、それを実現する人材づくりをする教育の場で有効なのは生田先生やここで紹介した先人や先覚者、同時代人の教育方法論であり、思考であり、言語である。

☆生田先生の「地理と歴史の≪授業を創る≫しごと練習帳」を通して、道具的段階である知識道具説や言語道具論を乗り越える教育方法論・思想・言語論をみてみたい。生田先生の「ゆさぶりのある授業」こそ、道具的段階を乗り越えるアイデアなのであるから。

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