複製技術時代の人材育成
☆ヴァルター・ベンヤミンは1892年生まれ、南原繁は1889年生まれ。南原繁は内村鑑三の弟子で、戦後教育基本法成立に私学人と共に奔走した。この教育基本法には私学人の精神が反映しているし、この精神は、南原繁と同時代人であり、二つの世界大戦を同時に経験もしているベンヤミンと共通している。
☆その精神とは、複製技術時代、つまりすでに当時ベンヤミンが予見した今でいうポストモダンにおいて、メディアが人間の本性あるいはアウラを喪失していくという危機感に抗うマインドである。
☆ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」で、一回性の存在の光であるアウラが、写真や映画という映像装置の反復によって疎外されると予言した。
☆YouTubeに象徴されるように、今ではIT技術が、その反復性を増幅しているが、構造は変わらない。
☆しかし、これは芸術のことだけではない。むしろこれはメタファーに過ぎず、人間育成そのものがメディア(映像装置のみならず、言語や知覚、認識もメディア)によって、疎外されるのである。
☆人間育成の場は学校である。たしかに公立学校は学習指導要領というメディアによって、人間育成を平等に反復し続けている。アウラというオリジナルであり不気味でもある存在を排除している。
☆一方、私立学校は、理念という建学の精神の永遠の一回性を重視している。したがって、私立学校は、時として公立学校というよりも文科省にとって不気味な存在である。
☆小泉八雲も夏目漱石も、宮沢賢治も、この存在の本質を不気味な存在として排除する近代化に抗った。
☆ところで、何ゆえに不気味なのか?一回性なのに永遠性と両立しているからだ。一回性は特殊がゆえに、公立学校では採用できない。一回性なき永遠性は、反復性として大衆化する。
☆反復性はやがてフラクタルとして次元をシフトするかもしれないが、そのような創造性には限りなく時間がかかる。反復性こそ官僚制度の耐久性である。カフカは変身や城で、この反復性こそ不気味な存在だとひっくり返した。ヘッセは、素直に、アウラとしての不気味なものに創造性の源泉を求めた。ゴルトムントや荒野の狼のように。それはデュオニソスと源を同じくするだろう。
☆反復性か永遠性か。どちらも同じではないか。差異を無化する時代。カット&ペースト。コピペというのが普通に行われるデータベース時代。
☆しかし、ここでもパラドクス。行きつく先がメディアの自己所有である。生産手段を自己所有した時、大衆は市民として生きることになる。市民とは私学人と同質性を有することになる。私学市場が、メディアを我が物にしている受験市場ではなく、メディアを自己所有させるイノベーティブな市場と協働する時代がすぐそこまでやってきた。
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