山田顕義ルネサンス 土浦日大中等教育学校から
☆吉田松陰の最年少の弟子山田顕義は入門当時13歳だった。まさに中等教育学校の生徒と同じ時期に、明治維新を拓く志を、吉田松陰から継承した最後の弟子である。
☆松陰は投獄され、最期を迎えるにあたり、弟子たちに、「留魂録」を遺した。松蔭死後、弟子たちは秘密裏に回し読みし、その意志を継いだのである。特に「志」という言葉は、松陰が生前山田顕義に贈った言葉らしい。
☆松陰は弟子たちの中でも、特に高杉晋作を信頼していたが、その晋作がかわいがったのが山田顕義である。五稜郭を落とすまで、新政府軍のリーダーを山田顕義が担ったのは、高杉晋作の遺志であったようだ。
☆しかし、「五稜郭を落とした男」の著者秋山香乃さんは、山田顕義の波乱に満ちたダイナミックな生涯は、明治政府の司法大臣になってからのことであり、そこをこそ書かねばということらしい。
☆たしかに、同時代人の龍馬や桂小五郎、品川弥二郎、伊藤俊輔、山形有朋、福沢諭吉、大隈重信などは、歴史上多く語られるが、山田顕義は、ドラマである龍馬伝や坂の上雲に登場してきただろうか?
☆1892年に亡くなっているということもあるが、1889年の明治憲法発布のときも1891年の大津事件のときも司法大臣だったのであるから、国家建設の土台を築いていたはずである。
☆しかも、民法典論争では、男女平等の論陣に立ったという。もちろん、旧憲法では男女はまだまだ平等ではない。このことは一体何を意味するのか?
☆この平等こそ、松下村塾の精神である。日本の近代国家は、松陰の弟子たちが築くことになるが、やがて弟子たちは他界する。山田顕義の松下村塾の平等と友情の関係を法律に導入しようという発想も消える。富国強兵へまっしぐらである。
☆山田顕義は、五稜郭を落としたときに、日本的な戦争のルールに従わなかった、国際法的視点に立った。それゆえ敵である榎本武揚は助かるのである。そして明治政府で活躍することになるのだが、この点は歴史ではあまり語られない。
☆たしかに山田顕義にしてみれば、グローバルな視野を持っていた松陰の志を貫徹しただけかもしれないが、軍事力によるのではなく、法による法治国家建設に転換したのも事実である。
☆そして、この山田顕義の法の精神は、必ずしも明治政府には受け入れられなかった。今もまだ実現されていないかもしれない。それゆえ、土浦日大中等教育学校の教育が、グローバルな視野を持ち、友情を大切にしながら学んでいる姿は、山田顕義の生き様に重なり、今もその精神を引き継ぐ意義があるように思えてならない。
☆歴史が語らなかった山田顕義の精神の真実。土浦日大中等教育学校の生徒が体現するのかもしれない。中1のときに校長による講話教育があるが、そこで吉田松陰が登場するのも大変な意味があるように思える。山田顕義ルネサンスが、同校から始まっているのかもしれない。
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