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「偏差値ランキング」から「成長段階サポート評価」へ

☆2011年は当たり前のことであるが、2012年に向けて準備の年である。しかし、その意味するところは、21世紀に入って以来言われ続けてきた21世紀型社会の現実化が起こる本格的な転換期ということである。

☆21世紀型社会とは知識基盤社会とも言われているが、この「知識」というものが21世紀になって10年経て、世間にも20世紀型の「知識」とは文脈が違うという理解が広まってきたのだ。

☆そのことについて、折に触れ考えて行かねばならないが、おそらく簡単に言うと、「記憶する知識」から「データベース化する知識」に明確に変化するということだろう。

☆前者をM知識、後者をDB知識と呼ぶことにしよう。実際にはM知識もDB知識も作用は変わらないのだが、その共有の難しさが大きく違う。そしてその差異が知識をヘゲモニーとして活用する事態を生んできたのが20世紀型社会なのである。

☆20世紀末から経済の空白の危惧が広まった一方、脳科学は大きなトレンドになった。これはM知識の共有化を欲求する来るべき社会の1つの動きだったはずだ。知識を記憶するということはどういうことなのか、それが解明できればM知識による格差がなくなり、IT革命によってもたらされたフラット化社会なるものを促進できるはずだという時代の文脈があったと思う。

☆そして脳科学はコンピュータ科学と協力することによって、記憶のメカニズムが脳内にだけあるのではないということを知った。M知識の時代から多くの人々が記憶術を語り、書いてきた。

☆方法論は10人いたら10通りの記憶術があるのだが、共通していることは、M知識を文字に移したり、音声に転換したり、まったく違うイメージと結びつけたりなど見える化することである。東大生のノートの取り方が一時大ブレークしたが、これもM知識の見える化の一つであった。

☆これを脳科学とコンピュータ科学は、一般化したのである。それがデータベースである。これによって、検索エンジンが可能になった。20世紀は、M知識を脳内にきちんと整理し、、縦横無尽に引き出せる人材が優秀であるとされた。

☆豊かな知識の量を持っているだけではなく、どれだけ速く引き出せるかが重要だった。その能力を競い合い優勝劣敗をランキングとして示すのに最適の方法が偏差値ランキングだったのである。

☆ところが、DB知識は、もはや脳内にある必要はない。脳内にあるのはネット上にデータベース化された知識を引き出す技術と新たな結び付きを発見する視点であり、常にその技術と知識はネット上で同時に学び合うことができるようになった。

☆サーチ技術、結びつける視点、コラボする構え、シンクロする学びが、M知識の量やスピードを共有できるようになったのである。

☆しかし、偏差値ランキングという評価システムを変えない限り、21世紀型社会のDB知識の能力を評価できない。大学生の学力の低下が問題だと言われるが、それはDB知識人を相も変わらずM知識人が評価しているからそう映るだけかもしれない。

☆ネット上にデータベースがあるのとノートやカードに知識が整理されているのと差異はないし、ノートを互いに交換すれば知識の共有は可能だし、辞書という優れた紙のデータベースがあるのだから大きな違いはないだろうと言われるかもしれない。

☆もしも自分以外の他者のノートも辞書もまるごと記憶することができれば、それはそうかもしれない。しかし、できたとしてもそれは一握りの人間だ。平等ではない。

☆知識を平等に活用できることが民主主義の理想であり、新しい知識を創造する自由を環境整備するのも同様だ。20世紀はそれを目指しながら、その過程で偏差が生まれ、そこにヘゲモニーが生まれたのである。貨幣を情報と読み替えれば、それはM知識の格差であり、経済格差と同様のメカニズムであることが直感できるだろう。

☆したがって、21世紀社会という知識基盤社会は、M知識のパフォーマンスを評価するのではなく、DB知識の技術、関係づけ、コラボ力、シンクロ力の効率性、柔軟性、創造性を駆使できる成長段階を認識し、その段階のステップアップをサポートできるパフォーマンスを評価する社会なのである。

☆ランキングの場合は、すべての人間が同じ段階にいることはできない。ある母集団の偏差値50以上の人間だけを集めてテストをすると必ず偏差値カーブができ、前の母集団で偏差値50だった人間の偏差値は下がるようにできている。

☆しかし、成長段階をサポートする評価は、誰でも高い段階に位置することができる。もちろんそこに位置することができない人間もでてくるが、それはその人間の問題ではなく、データベースの作り方や、インターフェースの問題であり、そこを解決するために脳科学やコンピュータ科学はさらに進化する。

☆そんなことがと思うかもしれない。しかし、電子教材のプロジェクトは政府官僚、学識経験者の間で立ちあがっている。2012年には本格的に実現化するだろう。発想はM知識の電子版に過ぎないかもしれない。しかし、電子化されるやM知識はDB知識として転換する。

☆いやすでにネット上ではそうなっている。夏目漱石の文章を只で読むことができる。その読み方はしかしキーワード検索をしながら読める。草枕で漱石自身が披露する読み方である。リニア―な読み方だけではなくハイパーテキスト型のリテラシーも。さすがは漱石。

☆英語ができれば、ヘーゲルもカントもルソーもベンヤミンなども只で読むことができる。出版される前に最新の環境の情報も読むことができる。PISAの情報も日本語の出版前に、英語ではあるが只で読むことができる。

☆もはや教材は原典そのものである。ネット上でないものはリアルな体験である。しかし、それも体験後にデータベースになる。だから、体験もDB知識として共有できる。それゆえ、体験へのモチベーションもあがる。旅行の情報は体験とDB知識の相乗作用によって豊かになる。

☆M知識はDB知識の部分になったのである。相当極小の領域になりつつあるし、DBから見れば静的な知識であり、活き活きしていない。そこにこだわる理由は2012年なくなるだろう。しかし、それを実現するカギは、評価システムのシフトである。DB知識の正当性、信頼性、妥当性を測る基準の共有が重要である。もし共有されなければ再び格差が生まれる。もっとも共有を拒む壁は、すぐに崩されるという現実化は、すでに昨年末からニュースで大いに話題になっている。これも2012年に向けての動きと連動しているのだろう。

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