予習か復習か
☆かつて、四谷大塚は「予習」シリーズを売り物にしてきたし、日能研は「復習」主義。今もそうだろうか?しかし、いずれにしても、どちらもレトリックに過ぎない。
☆当時は、市場で競争するとき、わかりやすい表現がよかったし、対照的な関係を作った方が、市場は盛り上がるというマーケティングの戦略だったような。。。
☆しかし、難しく考えもした。知識をきっちり積み上げて、修得していくと、やがて勝利が見えてくるという直線的思考方法は「予習」という言葉にぴったり重なったし、一方で、知識よりその文脈を大切にしていくと、何度も既習の知識が現れて、カリキュラムは一見すると合理的にみえない。直線的というより関係図的な、あるいはリニアに対しスパイラルな感覚のカリキュラムという意味では「復習」という言葉の方がしっくりきたとかこないとか、そんなディスカッションをしたような気がする。
☆ただ、積み上げ型あるいは直線型だろうが、予習するときには、既習の知識を応用するわけだから、螺旋型となんら変わらない。積み上げ型も直線型も螺旋型も、これまたレトリックに過ぎない。
☆知識と活動は分けられがちだが、それもまたレトリックに過ぎない。知識に関わる限り、そこになんらかの活動が伴う。分断できるような現象ではない。
☆こうして考えると、教育や学習の世界で語られている言葉は科学的ではなくマーケティングによる言葉のマジックである場合が多い。
☆学びの業界は自ら作ったマーケティング用語に絡め取られているのが現状。絡め取られるというのもレトリックに過ぎないが、そのレトリックが死喩と化し、ルーチンになると、それが壁となり、消費者だけではなく、子どもも幻想の理屈に振り回される。
☆知識とは、何か暗記する「もの」のようなイメージが強いが、知る「こと」であり認識する「こと」であろう。
☆要素に分解する「もの」的志向は科学ではない。要素に分解した「もの」の関係を再構築する「こと」が科学だろう。つまり「こと」的志向性。
☆しかし、ここでもまた「もの」と「こと」と分けてしまっている・・・。だからクリティカルシンキングが重要だという「こと」か・・・。
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