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「新しい学びフェスタ」の本位

☆昨日からスタートしている「新しい学びフェスタ」の意義について考えてみたい。

☆政府、財界は、教育や研究を通して、とにかくグローバル高度人材を創出したい。政府というのは、その背景には、官僚知があり学問知がある。その下位に公立学校がある。

☆だから産学官という動きがすでにある。今や「脱ゆとり教育」となっているが、そもそも「ゆとり教育」の横断的な学習観は、産学官のコラボレーションの法整備の動きに呼応していたのだと思う。学際知が語られ始めたのもやはり20世紀末のことであり、この動きに対応している。

☆もっとも、そのきっかけは、89年の天安門事件とベルリンの壁崩壊なのかもしれない。ノーベル平和賞受賞者の劉暁波さんの問題は、今もその時代精神の重要性を訴え続けている。

☆だから、初等中等教育段階の「脱ゆとり路線」は、もしかしたら反動的な動きなのかもしれない。グローバル高度人材の創出が、もっぱら大学で話題になるのはそういうことなのではないか。

☆今回の「新しい学びフェスタ」には、中等教育段階の学校と大学と企業と文科省と自治体が一堂に会している。しかも、文科省のサブシステムの枠組みよりも大きな枠組みである私立学校も参加している。

☆「ゆとり路線」にもどることはないが、たんなる「脱ゆとり」ではなく、その次を目指しているということだろう。

☆「熟議」の仕掛け人である文科省の副大臣鈴木寛氏は、政府(官僚・学問知)のソリューションだけではなく、市場のソリューションも大事であるが、コミュニティのソリューションが大事であると、折に触れ語っている。

☆GSとMSとCSと呼ぶことにすると、今までは、戦後はGS主導で、世紀末はGSとMSの協働関係主導で、21世紀はGSとMSとCSのコラボの模索ということだろうか。

☆この流れと共に公共概念も変遷してきたのだろう。だから、今「新しい公共」を議論しようとしているのが鈴木寛氏であろう。そして「新しい学びフェスタ」もそのフレーズからいっても、対応している。

☆もちろん、三者のコラボの在り方は多様である。それは「新しい公共」の概念も同様なのだが、それゆえ、多様な学びのプログラムの実施とそれの共通項や互いの違いを明快に引き出していく「熟議」が重要だということなのだろう。

☆三者のコラボの在り方を決めることが、今回の目的ではない。多様であることを互いに表明し、接点の可能性をたくさん見つけることが目的であろう。

☆ではなんのためにと問われるかもしれない。しかし、福沢諭吉は、「文明論之概略」で、まず議論の本位を定めなさいと語っている。文明論とは人の精神発達の議論であるとも語っている。そうはいっても、人の世に処するには、局所の利害得失におおわれて、その所見を誤るものはなはだ多い。紛擾雑駁の際に就いて、条理の紊れざるものを求めんとすることなれば、文明の議論、また難しだとも。

☆民主主義とは、言論・議論の自由を構築することであるのだから、まずは議論の本位を定めよということだろう。そうしなければ、利害得失の局地戦になり、紛擾雑駁で、条理も何もなくなるよと。

☆しかしながら、諭吉が「概略」プランを練り始めた1874年来、私たちの国には、いまだに議論の本位は定まっていない。「熟議」とは議論の本位の構築なのかもしれない。それゆえ、慶應義塾大学なのだろう。

☆もちろん、このレトリックをデザインしたのは、智慧者ベネッセのスタッフであるが、その智慧についてはいずれまた。

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