私立学校と公立学校の違い 「座談会」で①
☆昨日17日、聖学院ホールで、4校の私立中高一貫校が集い、受験生の保護者に「座談会」を催した。参加校は、聖学院、洗足学園、富士見丘、女子聖学院。
☆テーマは「私立中高一貫校とは何か」であったが、公立学校と比較しながら、まずは制度的な違いや教育の質の違いについて語りあった。その違いについて、4校は一致しながらも、具体的な取り組みの違いも出て、興味深い座談会となった。
☆景気低迷の中、私立中学受験が、少し停滞気味になったところに、都立中高一貫校としての白鴎の一期生から東大5人輩出などを受けて、一部マスメディアでは、公立の復権などという表現が使われるているようだが、いったい何が復権したのかよくわからないのが本当のところだ。
☆大事なことは、自分の子どもがどういう学校の環境、空気の中で育てば、未知なる出来事に遭遇しても、自己否定せずに、自信をもって生きていけるかということである。その現場の情報が欲しいのであって、ジャーナリスティックな視点や政策判断の話ではない。
☆そういう情報をいかにして収集できるのか、それにはまず、情報を受け入れる際のものの見方や眼鏡、フィルターというものを作っておかねばならない。そこで、今回は基本的な私立と公立の違いを確認しておこうということになった。
☆まず最初は、私立学校は「教育委員会」ではなく「知事」が所管しているという確認から始まった。私立学校は自由といわれるが、公立学校だって自由じゃないかと問われることがある。
☆この自由とは、心意気の側面もあるが、制度上公立学校に比べ私立学校が自由であるという大前提があるのである。
☆公立学校であろうと私立学校であろうと、日本という国の法律に従って初めてその制約内で自由なのである。しかし、それは果たして制約なのかどうかは、議論のわかれるところである。自ら決めた規定に自らを従わせることは自由であるという考え方は、カント派的な発想で、1つの考えに過ぎない。憲法こそ自由そのものの化身であるという考え方もあるだろう。
☆本当はそういうところから、マスメディアは議論を詰めておく必要があるのに、大学進学実績と偏差値のランキングしか取り上げないという、自ら言論の自由を封鎖しているとは!
☆それはともかく、私立学校も公立学校も憲法に定められている自由は保障されているのだ。しかし、憲法と学校間には、いろいろな下位法や規定が定まっており、憲法の自由を具体化する段階で様々な自由の制約がある。子どもの成長の公平性を保つために、学習指導要領が定められているが、この学習指導要領の考え方自体、1つの考え方であり、ものの見方である。思春期学がなくても成立する学習指導要領は、果たして本当に子どもの成長の公平性を保障するものであろうか?そんな疑問がでてきてもおかしくないはずだが、公立学校はその疑問を取り扱うことはない。
☆これは文科省―教育委員会のコントロール下に置かれているからである。ところが私立学校は、中等教育学校という法的制度ができる以前から、中高一貫校というシステムをつくり、思春期を乗り越える成長実現プログラムを実現してきた。
☆この点について、「知事」の所管である私立学校は、「教育委員会」から何も制約を受けないのである。教科のカリキュラムそれ自体、学習指導要領以上知を深めていくことに対し、何の制約も受けないのである。
☆建学の精神に基づいて教育が行われることについても、制約を受けない。男子校、女子校というシングルスクールであることも制約を受けないのである。
☆戦後は、このことは当たり前であったが、戦前や明治維新後の私立学校は、宗教を捨てなければ認可しないなどという規制が平気であったことを思い起こせば、憲法という理想の権利を現実段階で歪めてしまうこともある文科省や教育委員会に対し、教育のチェック機関として私立学校を「知事」の所管にした戦後の教育政策は、なかなかのものである。
☆もちろん、なぜ「知事」の所管になったかは、今となっては本当のところよくわからない。こういうところは専門家がきちんと調べるべきである。しかし、戦後の教育基本法の成立過程が、私立学校側の思想を前提にしている教育刷新委員のメンバーによって運営されていたことを思い起こせば、その意味も推察することは難くないだろう。
☆私立学校は、ある意味公立学校の第三者評価機関だったといってもいいのかもしれない。自ら教育のサンプリングとモニタリングをしながら、子どもたちにとって有益な教育とは何かの基準を作ってきたのである。
☆だからこそ、その基準にしたがって、公立も中高一貫校をつくり、制度改革に着手したのであろう。
☆座談会では、私学の独自性や自由が、私学の勝って気ままで行われているのではなく、制度的根拠があるというところで話は終わったが、そこから先を以上のように延長して考えるヒントになった。
☆とにもかくにも、思春期のときに、視野や視角、視点が決まる。つまり哲学が決まる。学習指導要領内での平均的な視野や視角、視点だけで、世界標準の哲学をカバーできるだろうか。「知識基盤社会」とはどういう知識を前提にするのかを国立教育政策研究所のある先生に訊ねたことがあるが、「知識基盤社会」はやってきているし、21世紀はそうなるのだから一点張りで、その中身をチェックしようとしない姿に、いまだにイデオロギッシュなコミュニケーションしかできない姿に辟易したことがある。
☆一市民が、根源的なところの確認をしたいといっているのに、そこは疑うところではないとは!驚愕驚嘆ではないか。自己否定感を払しょくするには、根っこの話をする以外にないのである。そこから軽やかに逃走しようというポストモダンがもたらしたものは、スキゾ人間の出現。それに対して根源的なことにこだわる人間をパラノ人間として表現されることもあるが、根源的でないことにこだわる人をパラノというのだろう。たとえば、ある組織の中で役職にこだわって、そのために休みも取らず、他者のことを顧みずに仕事をする人のことだろう。
☆根源的なものを軽視したり、根源的なものかどうかその正当性を論ずる基準がなくなったというのが、現代なのかもしれない。軽やかに逃走する姿を「お笑い」で表現したり、根源的なものにこだわっている人を「お笑い」で表現したり・・・。「笑い」ではなく「お笑い」なのである。どうなっているのか・・・。
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