私立学校と公立学校の違い 「座談会」で(了)
☆20世紀型教育と21世紀型教育の違いは、前者は、学力の上下が、自信格差につながるが、後者の学力の上下は、相対的かもしれないが、自信格差につながりにくい内面的座標軸が育成される確率が高いということである。
☆公立中と私立中の違いは、この違いがはっきりでるわけである。しかも私立中学にとって、21世紀型教育とは、実はもともと明治維新以降の優勝劣敗発想の官学と権利の闘争をしてきた私学の教育の一部にすぎない。近代の矛盾を受け入れつつ、その痛みをどう解消していくかという近代という枠組みの中では時代を超える普遍的な理念教育が私学の教育なのである。
☆だから、公立中の中における20世紀型教育と21世紀型教育以上に、公立中と私立中の教育の違いは大きくなるのである。
☆しかし、公立中高一貫校と私立中高一貫校の違いはというと、21世紀型教育という点においては、一見すると同じように見えるから、差異が見えにくいのである。
☆まして、今回のように白鴎の1期生の東大5名合格をはじめとする実績の成果をみると、公立中高一貫校に魅力を感じる保護者や受験生は多くなるだろう。
☆アメリカの有名プレップスクールであるケイトスクールやチャドウィックスクールのように、21世紀型教育で結果的にハーバード、スタンフォード、バークレイなど大学実績も輩出されるかというと、実際には、部分的に21世紀型教育で、ベースは受験勉強中心というのが、公立中高一貫校の現状であろう。
☆しかし、では私立中高一貫校は、ケイトスクールのようなカリキュラムの構造になっているのかというと、必ずしもそうではない。
☆やはり二兎追うスタイルの私学が多いだろう。だがしかし、それは米国の大学進学の制度と日本の大学入試の制度が違うから、そうなるのである。つまり米国の場合、理想と現実が弁証法的に制度的に統合されているのである。
☆それに比べ、日本の場合は、教育と大学受験勉強は、改善されてきているとはいえ、制度上つながりを見つけるのが難しい。
☆したがって、現実と理想を割り切ってシンプルに2本立てでやっていこうとする公立中高一貫校と理想と現実をなんとか自己創造しようという挑戦をする私立中高一貫校の理念の違いがでてきてしまうのである。
☆がしかし、その違いは外から見ていてわかるだろうか?≪私学の系譜≫だとか、民法典論争における松陰の弟子たちの劣勢の私学への影響が今もつながっているとか、そんなことは普通考えない受験生の保護者にとって、その差異を理解することはできないし、であればそんな話は無意味だし、かりにあったからといって、自分の子どもにとってなんの利益があるのだろうかと思うのは当然である。
☆優勝劣敗思想(勝ち組負け組。負け組は自己否定感をもってしまう)の≪官学の系譜≫に対し、それを解決しようという創造教育を行う≪私学の系譜≫とどちらを選ぶのか、それは学校選択者の価値観に基づく意思決定に委ねるしかないが、いわゆる勝ち組というのはほんの一握りなのである。しかも、勝ち組の中で、さらに優勝劣敗の作用が入れ子のように無限に続くのである。
☆これが幸せを作らない日本社会システムの構造である。いい加減変えた方がよいと思うのだが。
☆もちろん、私立学校でも≪私学の系譜≫から逸脱しているところもある。公立学校は制度上≪官学の系譜≫を逸脱できないが、公立学校出身者の中には≪私学の系譜≫に立つ人材もいる。その点は、日本は近代国家であり、その程度に自由は保障されてはいるのである。
☆いずれにしても、今回の座談会のパネラーである富士見丘、洗足学園、聖学院、女子聖学院は、まぎれもなく、≪私学の系譜≫であることは事実だろう。どのパネラーも、現実と理想の統合から撤退しないし、妥協もしないと高らかに宣言して、座談会は終了した。
P.S.
*次回は、7月3日(日)に座談会が開催される予定。20世紀型授業と21世紀型授業の驚きの違いを映し出してみたい。その違いこそ、自己否定感を生んだり、自己肯定感を生みだしたりする秘密があるのである。自信や自己肯定感は、ほめられて生まれているだけでは、本物ではない。自分の内側から生まれてこなければならないのである。がしかし、その自分の内側は、オープンマインドでなければ、成立しないのである。内面化された絆は、最終的には知によって明確化され豊かになる。
*絆なき知は、暴走を抑えることはできないし、知なき絆は同調感情で鬱屈し、恣意的権力を生みだす。絆ある知は、自己を支えるのである。そこには、絆がありつつ自由があるからである。これは、私立学校の授業でしか育成できない。
*その対極にあるのが、予備校の授業である。絆があるかどうかは予備校のミッションではないのだから。日本の高校のシステムには、高校と予備校が併存しているシステムがある。高校のカリキュラムの補完としてあるという意味ではなく、完全に名前だけ高校で、予備校に教育を任せきっているシステムが認められている領域がある。97%の人は知らないだろう。
*文科省は、ここをチェックしていない。その予備校の経営者が啓蒙的だと問題はないのだが、たんに利益主義だとしたらどうなるか。
*やはり理念問題は重要なのである。制度はいつも完璧でない。自由裁量の幅もまちまちだ。しかし、それでよいのだ。そこは理念問題で解決すればよいのである。コモンセンスといってもよい。
*だから、実は理念の時代ではないという事は、自己判断ができなくなるほど、法的規制の環境密度が高くなるという事を意味するのである。悪法も法である。改正したり破棄できるチェック機構を市民レベルでもはやもてない次元にまで進んでいるかもしれない。。。。。
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