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立教女学院の卒業の在り方

☆今回の震災と原発事故は、わたしたちの日常の生活を変えようとしている。震災による犠牲を直接被らなかったわたしたちは、それをどのように受けとめ、どう被災された方々を支援し、亡くなられた方々のご冥福を祈ればよいのか、悩まない日はない。

☆イギリスの知人の留学生たちが、義援金を集める活動を開始してくれた。しかし、その活動の最中、彼らは議論し続けた。遠くの不幸は、自分たちにとって美しく見えているだけではないのか、私たちはここでこうしていることは偽善ではないのか、自分たちが出来ることを懸命にやるというので、よいのだろうか・・・。

☆自分たちが考えたことを行いに移すことが、主体的で積極的で、アクティブですばらしいことなのだというのは、平常時のビジネストークに過ぎないのではないか・・・。

☆私には、何もアドバイスすることはできなかった。おそらく私と同じ想いでいる方も少なくないだろう。そんな迷いが、自粛というムードを作りだしているのではないかと思う。しかし、同時に、やはり何か活動が重要であるという想いも持っていることも本当のところだと思う。

☆そんなとき、山岸教頭から立教女学院の「時に臨む在り方」を教えて頂いた。どこの学校も卒業式をそのまま行う事はできなかった。立教女学院も同様であるが、聖マーガレット礼拝堂で、「卒業感謝礼拝」の集いは行うことができたようである。

☆この礼拝で、卒業生に贈るメッセージとして、平塚校長は、アメリカの詩人エミリー・ディキンソンの詩を引用された。「失意の胸へは、だれも踏み入ってはならない、自身が悩み苦しんだという、よほどの特権を持たずしては」という詩である。

☆私たちは他者の失意の胸に簡単に踏み込む驕った生き方をしてきたのではないか。だから原爆を投下するし、投下された国家が、投下された同じ国民の失意を踏みにじるように原発を建て続けた。その人間の驕りこそ、私たちの平和を奪い、やがては文明を滅ぼす元凶である。

☆今回被災された方々への支援は、あらゆる方面からなれさねばならない。しかし、その1つに、自身が悩み苦しんだ思いをもち、けっしてそれを忘れないで、他者との痛みを共有する生き方を、日常の生活で行っていくことも含まれているのである。

☆つまり勇ましい高邁な生き方それ自体である。日常生活での生き方を変えなければ、今回の震災の痛みをともに乗り越えることは難しいだろう。この難しさを乗り越えるところに教育の本領がある。

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