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公立高校の悩み②

お茶の水大学の耳塚寛明教授は、「第5回学習指導基本調査(高校版)」の巻頭言で、次のような指摘をしている

 『学びのすすめ』以前の第1回・第2回調査と、以後の第3回調査以降との相違はまことに大きい。学校は学力向上と定着を学校教育目標に掲げ、それを可能とする授業時数を標準を超えて確保する。家庭での学習指導をきめ細かに行い、宿題も多く出すようになった。念入りに学習指導を行うだけでなく、その結果をテストで確認し、評価の際にも重視するようになった。第3回調査以降示された「学力保障の時代」の姿が、第5回調査ではいっそう鮮明になったといってよいだろう。学習指導の実践が変わっただけではない。以下のように、教員の指導観・教育観も同時に大きく変化した(下記は、指導観・教育観をペアにして示し、「各ペアについて、あえていえば重視していると思うほうに○をつけてください」とたずねた結果)。

① 「子どもの持っている可能性が開花するのを、支援すること」減少。
 「 一人前の大人になるために必要なことを教え、訓練すること」増加。

② 「自発的に学習する意欲や習慣を身につけさせること」減少。
 「 たとえ強制してでも、とにかく学習させること」増加。

③ 「どの子どもにも、できるだけ学力をつけさせること」増加。
 「 勉強が苦手な子どもには、別の能力を伸ばしてやること」減少。

④ 「客観的な基準を使って、子どもを公平に評価すること」増加。
 「 直感的であっても、子どもの個性を重視して評価すること」減少。

⑤ 「受験に役立つ力を、学校の授業でも身につけさせること」増加。
 「 受験指導は塾などに任せて、学校では基礎的事項を教えること」減少。

 これらを要するに、子ども中心主義が衰退し、学力・訓練重視の指導観が強まり、また客観的・公平に子どもを評価しようとする傾向が強くなった。とくに中学校教員については学校の授業で受験に役立つ力を身につけさせようとする教員が増加したことも特徴である。これらの、教員の指導観・教育観の変化は、前項で述べた指導状況の変化の方向性と符合する。

☆新学習指導要領という「脱ゆとり教育路線」以来、学習指導の実践は、子どもの才能開化から学力保障の時代に転換し、その指導観や教育観も、子ども中心主義から学力・訓練重視の指導観に変わったということだろう。

☆本田由紀教授的には、のびのび型からきっちり型にシフトしたということだろう。

☆しかし、子どもという存在論的には、多様な面を持っている存在のどちらか一側面を伸ばしていこうという教育行政的な発想は、どちらもおかしいとすぐに気づくであろう。

☆人間の存在を引き裂き、それでいて学習意欲をなんとか持たせようなどとは、コモンセンスではない。。。それゆえ、私立学校は、のびのび型もきっちり型も包括・統合するわくわく型なのだが・・・。

☆しかししかしだ、この本音と建前の一元論的ニ元論は、日本の明治政府以来の特長である。啓蒙思想を捨て、表面的な社会進化論に移行したときからはじまった。

☆啓蒙思想を捨てるという政府の行為は、自然状態と社会状態のジレンマを片方を無視することによって、解決するということ。これが民法典論争にもつながり、その後、なんとか自然状態と社会状態のジレンマを解決する牧野英一の再チャレンジ「自由法論」が注目されたものの、すぐさまそれは捨てられた日本社会の政治と法と経済のシステム。。。

☆牧野英一の精神は、啓蒙的な発想をプラグマティックに継承しているアメリカには存在している。MITメディアラボの新所長に就任した伊藤穣一氏のインタビューから、引用しよう

私の経歴を見れば、私はまるで、まったく落ち着きがなく、何事にも集中できない人間のように見えるでしょう。MITメディアラボは、このような「すべてに関する興味」を組織化して相互関連性を持たせ、「境界線から、はみ出ればはみ出るほど良い」という考えの下、複数分野にまたがる学際的なアプローチをとっており、すべてについて、クレイジーでオープンな思考ができる場です。私にとっては、まるで「わが家」のように感じられます。大学の学位がない私をMITが指名してくれたことは、彼らの柔軟性を示すものであり、安心することができます。

私は、それぞれの専門分野で本当に深い知識や経験を持つ、非常にすぐれた人々の中に自分の身を置くようにしています。私の仕事は、彼らにコンテキストを提供し、他の人々と結びつけることです。特定の人々を、特定の事柄と他の人々に、適切な文脈と適切なタイミングで結びつけるということです。そういうことは、深い実績を持ちつつ、他との結びつきに対してオープンな人々としか、可能ではありません。

望ましくないのは、全部の新聞の見出しを読み、他の人が消費するような内容を消費して、自分をジェネラリストと呼ぶような人です。それでは役にたちません。そういった人は、他の誰もがすでに知っていることを知っているだけであり、おそらくは同じ考えを思いつくだけでしょう。

しかし、なんであれ深く追究すれば、他の人の知らないニュアンスを発見し始めます。そういったニュアンスこそ、ブラックボックスをあけて、「ちょっと待てよ、この方法で考えていていいんだろうか」と問うための助けになるのです。

現在のシリコンバレーは、あえて危険に挑戦することや機敏に行動を起こすことには本当に長けていますが、長期的視野にたって行動するのは苦手です。その原因は、ベンチャー・キャピタルの本質から来ます。公的な市場の圧力により、売上を第一に考え、早い段階で勝負を挑んで成果をあげ、さっさと退散せざるをえないのです。だから、素晴らしいことを思いついて成功をおさめたとしても、すぐに売上を上げることに意識を集中することになるのです。

これと対照的なのが日本の鉄道制度です。彼らは、100年先を見越して東京駅を建てることができたことを誇りにしています。100年たった今も、新しい線路を追加することができているのですが、それが長期計画というものです。一方で彼らは、リスクをとることや、革新的なことを短期間のうちに実現するといったことには長けていません。メディアラボでは、機敏であり、かつ長期的であることを目指しています。

☆本質が重要か現象こそが重要かは問題の立て方がおかしい。どちらも真実なのだ。片方だけになれば、前者は抑圧的な専門家になるし、後者は軽薄なジェネラリストになる。

☆大事なことは、「ブラックボックスを拓く」ニュアンス。このニュアンスに気づけば、本質も現象も結び付く。しかし、各分野の探究者はそのニュアンスを持っているのに、そのニュアンスの存在に気づかない。伊藤さんは気づいてしまう才能がある。そこで、ニュアンスどうしを見える化してつないでしまおうと。知のデザイナーとしてMITラボで活躍するよというわけだろう。

☆才能開花でも学力保障でも進学重点指導でも、「ブラックボックスを拓く」ニュアンスを持てる人材を育てることになればよい。もちろん、ニュアンスに気づくメタニュアンスを活用できる人材を育てることができればもっとよい。

☆公立高校の使命は、そういうことではないだろうか。

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