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ストラスブール大学の学生・大学院生と

☆ストラスブール大学で日本語や日本学を学んでいる学生・大学院生とある中高一貫校がコラボしているプログラムに立ち会っているが、極めてショッキング。

☆フランスの方がわざわざ日本語や日本学、日本の文化について学んでいるから、特別なのだろうが、私たち日本人より「美しい日本語」を遣うのである。

☆彼らは、源氏物語や徒然草から宮沢賢治、クールジャパノロジーまでワクワクして学んでいるから、主語中心の言葉を使うこととEgoless selfの言葉を遣うことの違いを知っている。

☆「美しい日本語」というのは正しい文法だとか正しい発音だとかいうことではなく、言葉の倫理を表現できるということ。

☆主語がなければ、曖昧で論理的でないと、近代官僚日本の教育は語ってきたが、日本語を学んでいる学生やストラスブールで彼らを指導している講師(日本人)は、言葉を道具=武器として使う場合ももちろんあるわけだが、日本語の美しい「もののあわれ」の情感も大事にしたいと。

☆言語の国フランスだからこそ、気づくのだろう。日本人は論理的に言葉を使い、もののあわれをベースにする言葉を遣うことを捨ててきた。

☆言葉を道具として使うということは、人間を道具として使うことである。人間を気遣うことではない。このことにハイデガーは多少気づいたのだが、それはもしかしたら田辺元や九鬼周造との出会いがあったからかもしれない。

☆道具を使うとは機械論的発想である。効率性・合理性・計算可能性・・・などを大事にする。一方気遣うとは場をつくるということである。

☆前者はわれ思うゆえにわれありである。後者はわれ思われるゆえに道が開けるである。己ではなく道それ自体である。

☆前者は≪官学の系譜≫であり、後者は≪私学の系譜≫である。ルソーの自然状態で言う憐みの情は、社会状態ではたんなる同情である。本居宣長の言う「もののあわれ」もまた法実証主義(もっともこの法は幕藩体制下においては民主的でないのは言うまでもない)の幕藩体制という社会状態の枠外にある場所での話である。

☆発信が大事だ、論理が大事だとプレゼンする日本人。しかし、それは結局自己中心言語を道具として使っていることに気づかない。国際社会において、言葉を道具として使う戦略的な場面と気遣いやケア、コンサーンとしての言葉を遣う場面との切り替えができずにいるわたしたち。

☆3・11のことで、海外で出会う人々からかけられる言葉は道具ではなく気遣いの呼吸である。そのことを私たちは忘れているかもしれない。

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