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公立高校の悩み(了)

☆公立高校の校長先生が感じている現場の教育についてのデータをみると、「残念な気持ち」になる。ことばとは何かについての意識がどうなっているのだろうと・・・。

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☆全体として、生徒と教師のコミュニケーションはなかなか良いと評価していながら、ICTの活用や新しいテーマや課題に取り組むのは、うまくいっていないと評価している。

☆チュニジア、エジプトから広まっている民主革命。言論封鎖や情報隠蔽をICTによって覆していく革命の様子を見ていながら、ICTを軽視している教育は、とてもコミュニケーションが良好だとは思えない。

☆まして、新しいテーマや課題に取り組まないコミュニケーションなんて、日常生活においてもありえないだろうし、あれだけキャリア教育といっていながら、起業家精神も何も、これではないではないか・・・。

☆いやいやこの調査は、エジプト革命などの前に実施されているから、この例を出すのはおかしいよと言われるであろうか。

☆実はフェイスブックやtwitterが活用されることも重要であるが、それ以上に重要なことがあるのである。

☆だから、それは市民革命とは、言語革命、コミュニケーション革命であるということなのである。本音と建前が覆い隠してしまう、存在論的コミュニケーションそのものの広がりなのである。本音と建前は、どちらも戦略的コミュニケーションの領域で行われているのに、本音が存在論的だという誤謬を広めてしまう。その本音こそ自己の利益しか考えていない。だから建前が必要なのである。

☆エジプト革命は、ICTというメディアによって、その存在論的コミュニケーションを噴出させたのであるが、大事なことは、それ以前にそれが大事なことなのだという意識や無意識が市民レベルの間で広まっていたということ。これである。

☆抑圧は、存在論的コミュニケーションが稼働するトリガーである。フランス革命にそのモデルがあるというより、革命のDNAなのだろう。

☆さて、問題は、革命後、戦争やテロが生まれないかということである。存在論的コミュニケーションは、権力者にとっては、厄介なものである。それゆえ、事態は常に反動が起こるのである。

☆脱ゆとり路線も、反動の1つの在り方である。それはともかく、なぜ権力者が出現するのか。それが鈴木寛副大臣もいつも語っている民主主義のパラドクスなのである。というよりも政党政治のパラドクスである。

☆民主主義を議会ではなく評議会で遂行するとどうなるか?それはハンナ・アレントの夢に過ぎないかもしれないが、権力者が生まれない可能性が高い。権力と自由は対義語であるのが20世紀型政治経済教育の価値観である。

☆権力と自由は、支え合うのであるというのが21世紀型政治経済教育の価値観であり、まさにその価値の転換は、言語革命そのものではないか。公立高校の校長の価値観が20世紀型であることが、この調査でも明かになっていると言えるのではないだろうか。

☆21世紀に花を開く高校生が、そんな前世紀の価値観で語られても、モチベーションがあがらないのは当然なのである。校長に限らず、教師は道を語って己を語らずである。己を語り続けるコミュニケーションは、独り言に過ぎない。

☆そして学校種別にみるとそのことはもっと明かになるではないか。大学進学指導重点校気質のある成績の良い子の集団である学校ほど、20世紀型コミュニケーションは良好であり、そうでない学校は良好でない。成績がよくないのは、20世紀型のモノサシでそうであるにすぎないのであるから、あまりに当然であるのに。

☆教育において言語革命をもたらすことこそ、重要であり、それが教育改革というものを意味しているはずなのである。そのためには存在論的なコミュニケーションの次元を尊重する必要がある。

☆「生きる力」に気づいているではないか!残念ながら、それは存在的コミュニケーションなのである。物質的生理的欲望としての存在ではなく、人間そのものの存在をとらえ返すコミュニケーションという意味で、存在「論」的なのである。

☆のびのびだけでも、きっちりだけでも、人間の全体像を描いたことにはならないのである。理念のない人間は、存在的で動物的であるが、存在論的ではないのである。

☆「論」とはロゴスなのだから。。。

☆それゆえ、公立学校は悩むのである。それゆえ、私立学校は理念の道を語るのである。己ではなく。そこにしか悩みを解消する悟りの道は開かれないであろう。

P.S.

そうそう、私立高校に通っている生徒は、日本全体ではおよそ30%。ということは70%の高校生は、公立学校の限界の中で育っているということである。このことがどんな影響を被って高校生活を暮らしているのか、クリティカルシンカーになることは大切であるが、その教育はだれが行うのか?この限界とは、近代官僚日本国家の限界と同様である。制度上そうだということで、それを越えようとしている教師がたくさんいることも確かなのである。

逆に、私立学校にも、20世紀型の教育観を持っている教師がいる。21世紀型教育を実行しようと新設された中学が、20世紀型教育観の校長や教頭に入れ替わったとたん、21世紀型教育を捨ててしまうということは実際あるのである。しかも、捨てているつもりは全くないという能天気振りなのである。学校選択の際、そこまでは読むのは難しい。読むべきチェックポイントは何か?それを考えねばならない時代がやってきたようだ。この点については、慎重に論じなければならないが、いずれ明らかにしたい。

もっとも、私が応援しようがしまいが、まったく影響はないのであるが。。。

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