3・11直後なぜかえつ有明は教育出動したのか
☆3・11直後、かえつ有明は、世の中自粛ムードが支配している中、生徒と保護者と安全を確保しながら、教育活動をすみやかに再開した。石川教頭は、学校は教育を通して社会に責任を持っているし、教育というのは社会貢献そのものであるから、風にも負けず、雨にも負けずという気概が重要なのだと。
☆また教科主任が一堂に会して、改めて授業は教科の知識を教えるにとどまらず、生徒たちが世界を読み解き、世界を書ける知を育成しなければならないと、教科の特性と教科の公共性について確認。今年はそこに向かって授業もテストも、入試問題も再構築していこうと絆を強め邁進している。
☆そして入試担当部門は、その気概を表現するために、プラウド入試を実施することにした。
☆かえつ有明の教育活動の合言葉は、創設者嘉悦孝の「怒るな働け」である。この建学の精神の背景には、嘉悦孝が原文で読んだアダム・スミスの思想があるが、もう一人重要な人物の思想がある。それは横井小楠である。
☆この横井小楠は、勝海舟も坂本竜馬も一目置いていた日本の大思想家であるが、ノンフィクション作家山岡淳一郎さんの「後藤新平と震災復興の4カ月」(日経ビジネスONLINE2011/06/03)には、後藤新平は師である安場保和によって、横井小楠の「公共の思想」を受け継いだとあった。
☆安場保和は、官僚近代を押し進めた明治政府を真っ向から批判して地方の政治活動を行った人物である。3・11以降の震災復興のリーダー不在は、昨日の内閣不信任決議回避の茶番劇によってより明かになってしまったが、それ以前から後藤新平というリーダーモデルについて話題になっていた。
☆つまりその思想は横井小楠である。かえつ有明がすぐさま教育出動をした気概は、ここに結び付くのかと≪私学の系譜≫の重要性を改めて確信した。
☆山岡さんのエッセイから参考になる箇所を少々長いが引用しておこう。
(横井小楠はその著)「富国論」で「地球上においては、航海が発達して諸国が自由に通商貿易を行っている。この中で日本だけが鎖国を守っていれば、必ず外国からの武力攻撃を受けるだろう」と語り、「天地の気運に乗じ、世界万国の事情に従って、『公共の道』をもって天下の政治をおこなえば」多くの障害は消え去ると交易立国を主張する。
そのためには産業を興し、流通のしくみを作らねばならない。具体的に「米以外の穀物、糸・麻・楮・漆の類、その他およそ民間で生産されるすべての産物」は、悪徳商人を仲介せず、藩と正直な商人合同の「物産総会所」で買い取って海外に売りさばき、元手のない生産者には藩が無利子で資金を貸し付けよ、と説く。
この方法で福井の生糸を中心とする物産は長崎、横浜から海外に輸出され、莫大な利益をあげた。安場が水沢で採り入れようとした県中札などは、小楠が福井藩で行った施策の援用だった。鎖国されていた日本で、小楠は百年先を見通していた。
続いて小楠は「強兵論」で、南下して大海を目指す国策をとるロシアと、世界中に植民地を持つイギリスのトルコ、アフガニスタンでの武力衝突を解説し、ロシアのウラジオストク港が繁栄すれば日本海が戦場になりかねないと警鐘を鳴らす。
じつに日露戦争を半世紀以上も前に透視していたことになる。小楠は「孤島の日本を守るに海軍よりすぐれたものはない」と断じる。
「士道論」で倫理の基「文武がもと一源であること」を説き、武士や役人が士道を尽くせば「人材が続々と生まれること疑いない」と言い切った。
「維(こ)れ新なり」の「維新」の二文字が最初に使われた幕末文書は「国是三論」だといわれる。小楠は、幕藩側の儒学者でありながら、驚くほど冷静に西欧を見つめていた。
「西洋器械の術(科学・技術)」を認め、「(キリスト教に加えて)政治・経済・物理の学問が生活の向上に非常に役立っているところは聖人の道と似ている」「仁政の効果があがっている」と西洋文明を絶賛する(「沼山対話」)。
勝海舟が恐れた「高調子」が、小楠の真骨頂はここからだ。
「(西欧の政治は)根本のところは利害の観念から出ております。利害に出発しながら、それをむきつけにして暴虐にふるまったのではかえって損害を受けることを覚り、現在では他の国を奪い取ったりはいたしません。しかし、貿易の利害は莫大なものですから、これを断れば必ず戦争をしかけてくるでしょう」と西欧の資本主義、侵略主義的本質を看破。念頭にイギリスが中国に仕掛けた「アヘン戦争」があったのは言うまでもない。
「いずれにせよ彼らは、心底の真意はともかく、目の前のことについては道理(万国公法→国際法)に従って主張し、行動するので、日本もこれに応ずるときは道理をもってするほかありません」と維新後に多くの日本人が初めて知る国際法をも射程に入れている。
小楠は、幕論が開国、攘夷に割れると、諸外国の外交官を京都に集め、将軍、重臣も列席して道理を尽くして話し合って決めよう、と「大会同論」を主張した。
殖産興業、富国強兵、議会政治……これらはすべて明治政府の国づくりの要諦になっていく。小楠は、崩れゆく幕藩側にあって維新後の日本のシナリオを鮮やかに描いた。その鮮明さは暴発主義の長州勢をはるかに超えている。勝海舟がおそれた「高調子」とは、この大経綸を指していた。
坂本龍馬(1836~1867)は小楠に、こう語りかけている。
「先生あ、まあ二階に御座って、綺麗な女どもに酌でもさして、酒をあがって西郷や大久保どもがする芝居を見物なさるとようござる。大久保どもが行きつまったりしますと、そりやあちょいと指図してやって、くださるとようございましょう」新政府誕生後、小楠は参与として内閣に加わる。だが、福井で成功した「国是三論」を全国に普及させるには状況があまりに混沌としていた。小楠の透徹した思想は、政治にまとわりつく打算や嫉妬、集団の論理に打ち砕かれる。開明派の小楠は、明治2年、守旧の尊攘公卿が糸を引く刺客によって京都丸田町寺町通で暗殺された。
「外国に通じるキリスト教者」の濡れ衣を着せられて……。
勝海舟は小楠の人となりを踏まえて、こう述べている。
「小楠は、毎日芸者や幇間を相手に遊興して、人に面会するのも、一日に一人二人に会うと、もはや疲労したと言って断るなど、平生わがまま一辺に暮していた。だから(松平)春嶽公に用いられても、また内閣へ出ても、一々政治を議するなどは、うるさかっただろうヨ。こういうふうだから、小楠のよい弟子といったら、安場保和一人くらいのものだろう。つまり小楠は、覚られ難い人物サ」(「氷川清話」)。小楠は維新の実行者にはなれなかったが、西欧文明を礼賛しつつも、その覇権主義の本質を見抜き、東洋の仁と信義、道理で乗り越えよ、と説いた。重要なのは、この西欧文明をも相対化できる思考を核に持てるか、否か、だった。
☆かえつ有明がクリティカルシンキングを標榜しているのは、グローバリゼーションの世の中だからこそ、横井小楠のような「相対化できる思考を核に持てる」ような人材を育成しようということだったのではないか。いまだに明治維新のときと変わらぬタコツボ精神が大勢を占めている日本。横井小楠の公共の思想は重要である。
☆なるほど、世界を読み解き、世界を書ける人材育成は肝なのである。
| 固定リンク
「Good School」カテゴリの記事
- かえつ有明 日常の学園生活こそ教育の質(2012.10.01)
- 海城学園 どこへシフトするのか?(2012.09.27)
- かえつ有明 新しいノーブレス・オブリージュへ(2012.09.26)
- 土浦日本大学中等教育学校 世界に開かれた学校(2012.09.26)
- 八雲学園 さらなる挑戦(2012.09.25)
最近のコメント