萱野稔人さん「効率優先の耐えられない短期思考」
☆本日(2011.6.1)の日経OnLineで、萱野稔人(かやのとしひと)さん・津田塾大准教授の『効率優先の耐えられない短期思考 100年で見れば「津波は想定内」』というエッセイが掲載されている。
☆萱野さんは、東浩紀さんとも活動しているようであるが、東さんがどちらかというとフランス思想と日本の思想を行ったり来たりしているのに比べ、フランス政治経済思想を純粋にわかりやすく伝えてくれる。両人の思想は、≪官学の系譜≫では全くなく、≪私学の系譜≫に近いが、それとて一定の距離をおいているところが、ときどき参照すると目からうろこのときがある。
☆宮台真司さんは、なんだかんだといって≪私学の系譜≫のこだわりをさらに強化しているように思っているので、3者の思想を参照することは、≪私学の系譜≫を考えるうえに極めて重要である。
☆≪官学の系譜≫にも≪私学の系譜≫にも属さない領域というのはあるのかといわれると、それはサンデル教授のカテゴライズを参考にするとよいのではないかと思う。
☆≪官学の系譜≫は保守主義かリベラリズムかどちらかである。≪私学の系譜≫はそのどちらも融合しているコミュニタリアニズム(共同体主義)。ただし、雑居主義ではなく雑種(ハイブリッド)主義である(南原繁の弟子丸山真男流儀的には)。すると、萱野さんとか東さんとかは、どちらかというとリバタリアニズムということになるかもしれない。あくまでソフトなリバタリアニズムだけれど。つまり、きっちり分けることはできない。
☆本題に戻ろう。今回の原発事故の主語である東電や政府の「垂直統合」の組織の在り方が効率優先をしているが、実はそうではない。「水平分散型」は非効率で不合理だと思われてきたが、非常時においては、こちらのほうが「強い」というパラドクスが露呈したのが、3・11の気づきの1つであると。
☆現代思想史的には当たり前の考え方であるかもしれないが、萱野さんのような立場の人が経済史やバラエティ番組で語ることが重要なのである。今まで専門家以外で現代思想に接するのは大学入試の現代文の素材でしかなかったが、3・11をきっかけに多くの市民が接することができるからだ。
☆フランス思想は多くのバリエーションがあるが、結局はルソーの自然状態をどのように社会状態に持ち込めるのかという話である。実はこれはカント―ヘーゲル―マルクスもそうだったし、アメリカのプラグマティズムもそうである。
☆しかし、おそらくイギリスと日本は違う。イギリスは自然状態は経験の歴史の中にあるから必要なかった。日本は明治維新のときに、自然状態は江戸時代の国学が発見した自然(じねん)やもののあわれに重なるから妄想として切り捨てたままになっている。
☆イギリスにしても日本にしても、その自然状態を保守してきたのが≪私学の系譜≫であろう。そういう意味で、萱野さんのエッセイが広く国民・市民に読まれることは、切り捨てられてきたという事実を知る機会になる。今までは多くの国民・市民にとって≪官学の系譜≫以外他に選択肢がなかったというのが日本の特長であろう。つまり垂直統合の組織の在り方しか。。。
☆だから、公立の教育現場で国旗掲揚や国歌斉唱が強制的であることは民主的でないということに気づかない裁判の結果となるのだろう。民主的には強制の可能性はあるが、教育現場では教育的配慮のもと強制的ではないのであると。教育現場こそ民主的でなければどうしようもないのにだ・・・。≪私学の系譜≫の場合、それを行うかどうか合意形成をしてから臨むはずである。行うかどうかどうかではなく、理念のもとにおいて現実問題妥当なのかというディスカッションがあるのである。
☆しかし、垂直統合の組織の場合、そのディスカッションのチャンスがないのだろう。しかし、≪私学の系譜≫もだからといって水平分散型ではなく、「垂平」協調型である。
☆萱野さんの最後の文章を引用しよう。参考になると思う。
今回の震災によって、平時における「強さ」の常識は大きく揺れている。たとえば奥羽本線は、乗客数が少なく、平時においては経済効率の悪い線路だと言われてきた。だが、震災で不通となった東北本線に代わって救援物資を運ぶことができた。もし平時に、経済性が低いから「弱い」と見なされて奥羽本線が廃線になっていたら、救援物資を被災地に届けることは、さらに困難を極めただろう。
私たちは、短期的な安定性や効率性ばかりを優先して、災害などの事態における耐性を犠牲にしてはならない。とりわけ経済や生活を支えるインフラについては、そうした短期の議論は危険をはらむ。
コストや経済性についても、これまで「非常時」と考えていたことを、時間軸を長く延ばして「平時」とすれば、結論は違ってくることがある。
原発で言えば、発電コストは発電の部分だけを見れば安いかもしれない。しかし、核廃棄物の処理や、原発立地自治体への補助金、そして事故があった時の対応や賠償金の支払いなどを含めれば、決して安いとは言えないはずだ。
一方、太陽光や風力による発電は、徐々に技術が高まってきて、設備コストも下がっている。今後100年を考えれば、どちらが「強い」と言えるか――。
3・11は、我々日本人にとって決定的な転換点になったと言われる。だが、この本質的な意味は、これまで非常時と捉えていたことをも「平時」としてくくり直す、という思考の転換点に他ならない。その転換を経て初めて、我々は日本経済の再生を果たすことができるだろう。
☆つまり≪官学の系譜≫の発想は「平時」の日常であり、≪私学の系譜≫は「平時」と「非常時」を両方備えているということ。大学進学実績の話題は「平時」、教養教育の話題は人間のリスクマネジメントの話題なのである。
☆3・11は≪官学の系譜≫から≪私学の系譜≫へ転換するとまでは言えないが、≪官学の系譜≫の終焉の時代の要請を意味することは確かではないか。その意味の教育改革を文科省は、鈴木寛副大臣のもとで推進することを期待している。
| 固定リンク
「時の声」カテゴリの記事
- 萱野稔人さん「効率優先の耐えられない短期思考」(2011.06.01)
- 世の関心 <「熟議」で日本の教育を変える>(2010.09.08)
最近のコメント