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脱偏差値! 「座談会」で①

4月聖学院で「私立学校と公立学校の違い」について座談会が開催されたが、昨日は富士見丘のホールで、座談会が行われた。「私立学校とは何か?」が大テーマであるが、話題は簡単に言うと「脱偏差値!」に集中した。

☆3・11以前は、たしかに量より質だと言われていたが、実際には話だけで、優勝劣敗、GDP競争の話が世間の不安をあおっていた。しかし、3・11以降、エクセルギーというエネルギー活用の質を考えるだけではなく、実行するという事態にいきなり突入した。

☆電力使用制限令が発動し、私たちの生活は、大量消費・大量生産・大量移動・優秀劣敗といった生活から、クオリティライフへ歩むことになった。この制限令は一時的なものかもしれないが、自動車産業とその膨大な関連会社や保育やレジャーなどの関連産業を巻き込む大きな渦はそう簡単には止められないだろう。

☆昨年来から、経産省や文科省は、クオリティクラスであるグローバル人材を育成する政策を推進していたが、より本格化する流れに拍車をかけるだろう。

☆そしてそれは中高の教育においても無関係ではない。「質の教育」。これこそが重要になってくる。この「質の教育」は当然偏差値では測れない。にもかかわらず、相変わらず、中学受験業界は、マスメディアも含めて、偏差値指標で学校を評価する。

☆パネラーの大島先生(富士見丘)は、入試の段階で偏差値が高くなくても、6年間で生徒はぐんと成長する、そもそも偏差値は生徒の成長曲線を予想できないと。

☆玉木先生(洗足学園)は、卒業生の進学先と成績推移の量的データ一覧を示して、結局量的データである偏差値は、子どもの未来の可能性を測ることはできない。その点で無意味であると。

☆平方先生(聖学院)は、学んだことの定着という範囲内では、偏差値は活用できるのかもしれないが、学びとは、人間の活動、生きる方法、存在のあり方、ともに生きる絆などすべてにかかわる話しで、それを偏差値で序列をつけることはできない。すべての子どもたちがこの学びをいかにして身につけられるかにチャレンジしているのが、グローバル社会の時代の要請であると。

☆だいたい、欧米の大学への進路を考えるとき、偏差値という概念は使われないとも。

☆偏差値という統計学的手法は、限定的な量的データの1つにすぎないのに、それを学校の評価や生徒全般の能力の評価に敷衍することは全く根拠なき幻想なのである。

☆そんなことは知っていると見識者は言うかもしれない。しかし、見逃してはならないことは、そのような根拠なき基準に不安を煽られている受験生や保護者の現状である。コーチングやファシリテーションというやわらかいコミュニケーションが企業や教育において行われるようになっている。しかし、なぜか抑圧的雰囲気が抜けきらない高ストレス日本社会。

☆それは、わたしたちの判断基準が、わたしたちの内なる基準で判断されているのではなく、量的データというあたかも客観性を装った、誰かが操作している基準によって一喜一憂させられているからである。

☆それを払拭するには、心の座標軸を形成する必要がある。それはいかにして可能なのだろうか?パネラーはそこに建学の精神があり、その精神が日々の学園の教育活動によってなされるのであると。(つづく)

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