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脱偏差値! 「座談会」で(了)

☆今回の座談会では、ほかに「自立」や「部活」の話にも及んだ。内なる座標軸を、学校と生徒が共有することの重要性を謳うだけではなく、それがどのように行われるのかにチャレンジしたわけだ。

☆成績がよい生徒は、自ら学んで学力を向上させていくのか、強制的に勉強を強いられてなんとか向上していくのか、結果だけ見ていてはわからない。

☆そして偏差値である。偏差値を上げるために自立して勉強をするというのは、実はショートした言い方である。というのは、偏差値は自分が決めた基準でないからである。偏差値を上げるための勉強はかなり限定的でもあり、学びの一領域に過ぎない。

☆それなのに、それがすべてであるかのような幻想の中で、一生懸命頑張ってしまう。偏差値が低いと学力が低いかのような錯覚もしてしまう。そして偏差値がすべてであるから、その中で低ければ、自信を失い、自己否定感に沈潜する。

☆逆に高ければ、偏差値がすべてであるから、すべてに関して力があるかのようなこれまた錯覚におちいる。世に言う万能感というやつである。

☆自立とは、そんな幻想の呪縛をぶち破る精神と活動力である。つまり、他人が勝手につくった尺度に振り回されないということ。すなわち、内なる座標軸をもつということ。だから、理念が大事なのである。

☆もちろん、他者と共有する尺度を形成することは必要である。しかし、それは合意形成をした場合のみ。もちろん、実際に社会的習慣のように、合意形成をしていないような場合もある。だから、常にそれはクリティカルにチェックしなければならない。クリティカルシンキングが必要だと言われているゆえんである。

☆私立学校の授業や教育活動は、実はこのクリティカルシンキングを養う機会になっている。

☆聖学院の場合だと、8:15に本物の鐘が鳴り響く。そこから讃美歌と祈りがはじまる。聖書を朗読し生徒たちが解釈する。聖書を通して社会をみること自体クリティカルシンキングであるし、この祈りの時間と自分の座標軸の対峙もまたクリティカルシンキングである。

☆当然、対峙する高校生は、祈りの時間はいごこちがよくない。牧師でもある山口校長は、その姿を見て微笑みながらそばを歩き去っていく。その生徒にとって、今の快さが問題になっているだろうが、そのちょっと奥で自分とは何かを問うている瞬間になっているからそれでよいのだと。

☆そして授業が始まるが、どの教科も、エゴと他者と社会と自然を分けて考えつつ、リンクさせていく基礎的な考え方が通底している。自己中心的に読解したり、英語で会話をしたり、実験したり、世界史を眺めても、その考えは世界で通用しない。ただ暗記するだけでの授業なら、自己中心的でよいかもしれない。しかし、それは与えられた知識を、つまり他者がこれを覚えた方が良いという他者基準を鵜呑みにすることだ。自立はそこにはない。だから、聖学院の授業は、自らを眺め、自らを自己中心から解放していくクリティカルシンキングが埋め込まれている。

☆洗足もそうである。自らを謙虚にし、慈愛に満たされた人間は、授業の中においても自宅学習においても知的な力を発揮する。この習慣を中1・2でしっかり身につける。これが洗足でいう基礎基本であり、知識を覚えることが基礎なのではない。それは基礎基本の一部に過ぎない。その習慣があるからこそ、総合学習における論文やレポート作成は、思考が大きく回転するのである。

☆しかも、レポートや論文の編集をして、プレゼンするという体験は、独りよがりな主張を言っても通じないということが実感できる体験である。謙虚とは道徳的行いでもあるが、同時に知という世界の共通財産を形成する時の構えでもあるのだ。グローバル人材を作らねばと文科省や経産省は叫んでいるが、世界に通じるコミュニケーションは、クリティカルシンキングが基礎なのである。

☆富士見丘も実は同じである。学校生活そのものがエコシステムに気づき続ける環境であるが、そのエコとは、つながりであり、循環であり、優勝劣敗ではなく、相互に尊敬しあいながらつながっているという感覚。ポストモダニズムの過剰な消費や生産に対するクリティカルなセンスは学園生活そのものの中にある。だからといって、自然の学校などというのではない。新宿からすぐ近くの近代都市の中で、エコシステムを再構築・シミュレーションしているわけである。現実の近代都市の中で、自然を取り込む発想こそ、江戸のエコシステムに戻れないこれからの社会において重要なのである。

☆そして、富士見丘の論文編集のそのプロセスも圧巻である。その様子は近日中に同校のサイトで公開されるということである。期待したい。

☆さて、部活も教育活動の重要な柱だが、ここにも自立が生かされている。洗足の玉木先生は、部活はゴールドメダルを取ることが第一の目的ではない。先輩と後輩のコミュニケーションの中で、自立しつつ協力できることなのであると。先輩にただ従うだけの後輩の姿には、自立はない。部活でトラブルが起こるのは、そこなのである。互いに自分軸を持つこと、そして合意をして協力していくこと。それを学ぶチャンスが、洗足学園の部活である。

☆聖学院も同じであるが、まだまだ日本は遅れた男性社会である。上下の関係は高ストレスである。だから、ひきこもる。聖学院は、この縦の関係をどのように良好にするか、勇気と愛のコミュニケーションを学ぶ絶好の機会であると。先輩と後輩のコミュニケーションを学んで、社会に出たとき、時代錯誤的な男性社会を改革していくリーダーになる可能性大である。

☆富士見丘の部活も同じであるが、少林寺が人気というからおもしろい。道。この精神性を共有している先輩と後輩のコミュニケーションは、高いメンタルな領域を共有しているはずである。ワザを高めていく階梯は、5段階欲求説の階段を1つずつ登っていくのと同じような感覚だろう。つまり、体力をつくり、勇気と自信をメンタルな側面から作りだし、互いに尊重し合い、自分の居場所を互いに確認し、自己実現への道へ向かう実感を部活の先輩後輩のコミュニケーションの中で体得していくのである。

☆成功体験は、大学に合格することだけがそうなのではない。大学への進路は重要である。しかし、それは自立して歩んでいくときに遭遇する1つの場であるだけである。そこがすべての場であるかのごとき強迫観念を払しょくすることこそ大切であるが、いかにしてか?それは自立というのがカギであるということなのである。

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