授業の質の向上システム
★ある意味、前回のつづき。
☆授業の質の向上システムは、大きく分けて2通りある。教師は教職課程や教員実習で、授業の熟練者になるべく入門する。そして、学校に配属になってからは、教員研修や先輩によるコーチングによって、初級者、中級者、熟達者と成長していく。
☆しかし、ここまでは、ヒューバート・L・ドレイファスによれば、自分の理論によって授業という実践を組み立てていくのではなく、他者によって与えられたルールを自在に使える度合いの成長にすぎない。日本の初等中等教育では、学習指導要領という他者が与えたルール集、つまり、形式知の熟練で終わる。その熟練者が再び入門者に形式知を伝えていくというクローン製造循環ができてしまう。
☆たしかに、この循環は、ある意味脱技能であり、かつてのマイスター制度のようなマイスターを育成するために時間がかからないシステムである。しかし、熟練者が、自分の学習理論や他者の学習理論を学び、自らのルールを見出し、それを授業という実践に生かそうとするとその循環を突き抜けることになる。
☆ただし、公立学校の場合は、熟練者が専門的技能者に飛躍することはできない。両者の間には文科省や教育委員会という監督機関(阻害要因にもなり得る)があり、断絶している。
☆この断絶を突き破る環境があるのは、私立学校である。専門的技能の段階では、まだ授業の実践に、発見したルールを十分に生かせる状態ではないが、実践の中で、理論と実践の結びつきに精通してくる。やがて、理論と実践が一致し、形式知と暗黙知は互いに響き合い豊かになっていく。
☆この断絶を突き破って実践知にまで到達する質の向上のシステムを新しい徒弟制度と呼んでよいだろう。従来の徒弟制度と違うのは、暗黙知である学習理論が奥義として非公開ではなく、奥義は互いに公開されるという点である。
☆「入門→初級→中級→熟達」の閉塞システムと「入門→初級→中級→熟達→専門的技能→精通→実践知」という開放システムの2通りが、授業の質の向上システムとしてあるが、質の豊かさは、前者は限界があり、後者は無限の発展があるのである。
☆限界枠内で研修を行うか、どこまでも無限の才能を広げるマイスターになる探求を続けるのか、これは個人的な問題ではなく、学校システムの問題なのである。
☆東京都の教員採用試験で教職教養が重視されているのには、このような背景があるのだろうが、新しい徒弟制度が構築できる環境ではないので、それが見えず、結局は、固定化された形式知のルーチン化のサイクルに回収されてしまう。理想はわかるが、それを実現するシステムがまだ構築されていないのが、残念な感じなのだ。
☆逆に私立学校の中でも、大学進学実績を出すことを第一義としているところは、実績が出ていることは、質の証明でもあるといっても、その質は形式知のみのサイクル内の話であることに気づいていないのであって、そのサイクルを抜ける教育の自由の環境を持っていながら、その環境を活用していないのも、残念な感じである。
☆グッドスクールとエリートスクールの質の差異はここにあるのである。
P.S.
ゆとり教育で育った教師を、ゆとり世代と称し、その極端に力量のなさを嘆く風潮があるが、これはゆとり教育の問題ではない。学習指導要領という形式知ベースの研修によって熟練者のクローンを生産するシステムであることが問題なのである。これはポストモダニズムが大きな物語や哲学を排除してきた社会的背景と同根なだけである。
状況に埋め込められた文脈を読み解く知を理論的に発見し、実践知に移行するシステムではなく、その文脈を空洞化した理論を伝えているわけだから、ファンダメンタルな授業知が伝わることがないのは、あまりに当然であるとは思うが・・・。
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