授業の質は学校の質②
☆授業の質が学校の質であるというのは、授業が生徒の成長段階に合わせて行われるからである。
☆この「合わせる」というのは、自然に成長していくのに合わせるという意味ではない。授業を行っていると、生徒は成長するから、その成長を促せるように授業のアプローチ、シークエンス&プロセス、モチベーションの作り方を変化させていくということを意味する。
☆ハーバーマスがコールバーグ/ピアジェの道徳の発達理論と語用論的発想の認知構造の変化をコミュニケーション行為の理論で統合しているマトリクスがある。それに加筆してつくってみたので、まずは公開する。
☆成長の次元や年齢、自己の根拠、認知の構造などは、筆者が加筆した。もともとハーバーマスも仮説なので、さらに私の経験を付け加えてみた。改悪かもしれないが・・・。
☆ハーバーマスは、欧米市民の成熟を想定しているので、成長の次元7は考えていない。しかし、日本語で教育を行っている以上次元7は必要であると考えた。
☆というのも、英語などのヨーロッパ言語は、主語があるが、日本語は主語が省略されている場合が多い。それを欧米的なパースペクティブ(視角視野)では、日本語は論理的ないしあいまいだといわれがちであるが、日本的なパースペクティブでは、ヨーロッパ言語はエゴ・セルフの世界に自己を置いて言語を使用しているが、日本語はエゴレス・セルフの世界に自己を置いて言語を使用しているので、認識のズレがあるのは当然なのだ。そこを互いに了解しながら理解しあっていかねばということになる。
☆ただし、日本の近代教育は、欧米的背景を持ち込んできているから、子どもたちは、12歳ごろまでは、統語論(欧米の言語文法)で、自己を形成していくことになる。しかし、日本語はエゴレス・セルフであるから、認知構造はおいつかないまま、形式的には次元7の境地に達しているという成長局面のアンバランスが生じている。
☆このアンバランスを持ち続けながら、最終的に理想と現実が一致する次元に到達できればよいが、そうでない場合、どちらかを捨てるか、結果的に曖昧な自己に苦しむことになるかもしれない。
☆日本語を使いながら、エゴレスセルフの境地を捨てることになると、夏目漱石が苦悩したように、日本の文明開化は、外発的なままで内発的開花が行われないということになる・・・。
☆外発的ということは、自律の段階に進めないから、前慣習的段階のまま成長がとまってしまう。公立学校が制度上、というかその制度が成長阻害要因になっている(思春期を切断する高校入試の存在は特に)のであるが、慣習的段階に進めないのはそういう理由なのである。もちろん部分的には進めるのであるが、マトリクスすべてのセルを埋めて成長していくわけではないから、形式的・部分的・偏向的には高次元に進んでも、ベースは前慣習段階か、慣習段階―次元3で止まってしまうのである。このことは、OECD・PISAの結果とも重なる。
☆ただし、教育は公立の学校でだけで行われるわけではなく、ICTの登場により、よかれあしかれ、次元をシフトさせる影響が子供に及ぶ。そのことについては、ガイアックスのスクールガーディアンの活動を紹介したときに論じたとおりである。
☆しかし、私立中高一貫校では、以上の点を創設以来、建学の精神という成長次元7までを想定して(次元7はある意味宗教教育あるいは宗教的コミットメントでなければ促進できない。憲法上日本の公立学校は無論できない。ドイツは違うし、アメリカは教会でできてしまう)、教育をしているのであり、それが授業の質として具現化されているところが多い。
☆その意味でも、授業の質は学校の質なのである。
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