21世紀型教育とか英語教育とかの向こうに
☆21世紀型教育とか英語ではなく英語教育に力を入れることが時代の要請であるとは、個人化した社会を改革する人材の育成が求められているということである。
☆大学入試の壁と就活の壁をぶち破って、グローバル人材を作ろうという文科省のビジョンはわるくないが、それはまだポストモダニズムの枠の中で考えられているとしたら、ぶち破れない。
☆そもそも、文科省がそのようなビジョンを掲げても、大学の中には、就職率を上げればそれでよいと考えているドメスティックな経営陣もいっぱいいるだろう。たしかに、ジグムント・バウマンではないが、リキッド化するポストモダンにあって、研究の権威は大学から失われているかもしれない。
☆だから、就職に有利な展開をすればよいということで満足している大学というの名の就職予備校もあるだろう。そのような大学は、研究機関としては時代の要請を裏切っている。ポストモダンな生き方を推奨していたのでは、教育組織としてもどうかしている。
☆永遠を破壊したモダニズム、進化を死滅させたポストもダニムを乗り越える探求をするのが21世紀型大学であり、英語ではなく英語教育に力をいれる大学である。
☆そのような大学の附属の私立中高一貫校は、大いに可能性があるというのが、この間の一連の話である。そのような私立中高一貫校の可能性について、バウマンはこう語る。少し長いが引用しよう。(もちろん、バウマンは日本の教育を念頭にはおいていないが、先進諸国の教育全般にあてはまるパースペクティブを披露しているわけだ)
世界を「合理化」する試みと、その世界に居住するのに適した合理的存在を訓育する試みとの間の協調(おそらくは予定調和であるもの)、すなわち、近代の教育プロジェクトの基底にある前提は、もはや信憑性のあるものとは思えない。そして、人間が生活する社会的居住空間を合理的にコントロールしようという希望が色あせていくのにともなって、第三次学習の適応上の価値も、なおさら明白なものになっている。「生活のために備えること」――あらゆる教育の永続的で不変の課題――は、何よりもまず、不確実性や両価性(ambivalence)、視点の多様性や過誤なく信頼のおける権威の不在という状況とうまく和解しながら日々生活していく能力を養うことを意味するものでなければならない。そして、それは、差異への寛容と、異なってあることの権利を尊重しようとする意志を浸透させることを意味するものでなければならない。また、それは批判・自己批判能力を強化することや、自分の選択とその結果に責任を負うために必要とされる勇気を与えることを意味するものでなければならない。さらに、それは、「枠組みを変える」ための能力、そして、自由――それが新しいもの、未踏のものにふれる喜びとともにもたらす宙づり状態の不安――から逃走するという誘惑に抵抗する能力を身につけることを意味するものでなければならない。
とはいえ、肝心なのは、このような資質が、教育に関わる理論家や専門的実践家の構想力や統制力に最も向いている教育過程の局面を通じてでは、つまり、言葉で明言されたカリキュラムの内容やベイトソンが「原学習」と呼んだものにおいて授けられるものを通じてでは、十全には育成されえないものである、ということである。教育の「第二次学習」的な局面にはより期待をもつことができるいかもしれないが、これは、しかしながら、計画することをや包括的で全面的なコントロールには、周知のように比較的なじみにくいものである。問題となっている資質は、むしろ、ひとつの特定のカリキュラムやひとつの特定の教育上の行事の場面に関わるのではなく、まさしく交差し競争する多様なカリキュラムや行事に関わるような、教育過程の「第三次学習」の局面から主として現れてくるものなのである。(『個人化社会』ジグムント・バウマン著・深井敦 他共訳 第10章「教育」189ページ)
☆あらゆる多様性や両価性、つまりコンフリクトとパラドクスという状況を乗り越える批判的思考力と数学的思考のセンスをもった資質を養う第三次学習を行える教育が、21世紀型教育であり、英語ではなく英語教育に力を入れることなのである。
☆多様性と両価性(多価性かもしれない)をもったポストもダズムから生まれ出でた他者と互いに相対化しながらコミュニケーションできる批判的思考とその相対化した視点を位置づけながらビジョンをベクトル化する座標軸をつくるには、数学的思考のセンスがいる。
☆大学入試の問題は、ポストモダンどまりだし、数学は座標軸を作るのではなく、与えあられた座標軸を読み込む段階で終わっている。それは批判的思考と数学的思考のセンスを養う過程を阻害する。これは就活もそうである。これが本当の両方の壁の本質である。
☆この事態を予想し、この第三次学習を文科省のコントロールから相対的に自由に教育を行ってきたのは、すでに明治時代から開設された私学なのである。モダニズムとポストモダニズムを乗り越える教育のヒントは、明治にルーツをもつ≪私学の系譜≫に行きつく。古くて新しい「もう一つの近代」を目指してきた私学の教育を、21世紀にはいってジグムント・バウマンが再び語っている(もちろん私学を意識せずに)と読むとおもしろい。
☆この≪私学の系譜≫の精神から外れた大学の附属校は、念のためにチェックした方がよい。中には、完全にそのような大学を見限って、独自路線を確固たる信念と強い組織で対抗しながら歩んでいる附属校もある。また逆に言いなりになっているところもあるのだから。
☆とにもかくにも、この個人化したポストモダニズムの社会を乗り越えようと共に生きる学びの環境を作っている私学人は私学にはたくさんいる(実は公立にも私学人の気概をもった先生はいるし、私立にその気概をもっていない教師もいるのだ)。日本の教育の重要なリソースであり、このリソースを生かすのは、受験生と保護者でもある。
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