21世紀型教育を選ばなければならない理由②
☆20世紀型教育は、義務教育を中学までに設定した。中学から社会に出るわけだから、そこで人間としての修業が開始するわけだ。思春期と職業が重なっていたのであるが、そこでは、人間とは何かが常に問われ場であった。もちろんその人間論は偏っていただろうし、封建的要素も抑圧的要素もあったわけだから、そこに回帰すべきだということをいっているのではない。
☆しかし、それは教育そのものの問題ではなく、社会問題であり、社会における議論が闘志を生み出してきたわけだから、人間そのものの大切なものは失われていない。
☆ところが、89年ベルリンの壁崩壊前後で、高校までが事実上、義務教育化したわけである。もはや6・3・3制の使命は終わったのである。にもかかわらず、今も続いている。
☆この6・3・3制が21世紀の今問題なのは、社会的問題が教育問題と重なっているのに、それが見えない状態になっているという点だ。
☆どういうことかというと、中学で社会に出て、思春期と重なった場合、その問題はよかれあしあしかれ、社会的問題として議論の対象にできたが、思春期と高校入試が重なり、思春期を乗り越えるどころから、パッシングする事態になっているところに新たな問題があることに、社会が気づかなくなっているところに問題があるのである。
☆高校入試に続く大学入試、さらにそれに続く就活。知識の効率化が行き届き、学びの合理化が起こり、生活や社会、世界の痛みからほど遠い安全運転ができる知識のつながりだけを活用して(それでも知識の運用に変わりはないが、運用してもリアルな世界は排除したままだ)生きていけるようになったのである。
☆昔から定番のマザーコンピュータに支配されたSFの未来社会そのものであるが、そこまで露骨にコントロールされずに、なんだか勝手気ままに自由に生きていけそうな社会に人間力なき合格力だけで生きていけるようになったわけだ。
☆もし人間力に目覚めれば、合格力という偏ったパワーだから自由に生きていけるように幻想を見ていられるのであることに気づくはずなのだ。しかし、そこには目がいかないようになっているずる賢いコントロールを忍ばせたのが20世紀型教育である。
☆このことを明治時代から直観的に感じ、量による優勝劣敗競争ではなく、教育の質の競争をして、人間にとってかけがえのないものを常に掘り起こせる教養のしのぎを削ってきたのが私立学校だった。
☆私立学校もはじめから中等教育学校ではない。しかし、ベルリンの壁が崩壊してから、社会問題を教育問題としてきちんと引き受ける使命を持っている私立学校は、制度上ではなく質の教育上、中高一貫校化したのである。高校入試がないことによる、人間力の飛躍の糧を貯め、エネルギーをたっぷり充電するチャンスを設けたのである。
☆中3から高1にかけて、「なかだるみ」という表現がとられるが、たいていの場合ポジティブな意味がこめられる。しかし、受験産業はそのレトリックを真に受けて、もっと効率の良いカリキュラムを組むことを私立中高一貫校に要求する。
☆受験産業の指標は偏差値やお金に換算できる量的モノサシをあてているからである。しかし、その効率重視の教育が、荒れ狂う疾風怒濤をくすぶったまま社会に持ち込んでしまうのだ。エリートや高学歴者のおかしな不祥事の多発につながっていないとはいえない深刻な矛盾を効率重視教育は見過ごしてきたのである。
☆それゆえ、良質授業を行い、合格力だけではなく、人間力を養う21世紀型教育を追究している学校を選ばなければならない。20世紀型教育も人間力と言ってきたではないかと言われるだろうが、その人間力は、21世紀型教育から見れば、合格力の置き換えにすぎなかったのである。
P.S.
そしてこの20世紀型教育に振り回され、思春期をパッシングしてしまったのは、あの「2人のアドルフ」である。1人はアドルフ・ヒットラー。もう一人はアドルフ・アイヒマン。彼らの血の炎は、かくして人知れず今も継承されているではないか。。。。。。
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