洗足学園の111。
☆11月1日に、サイトで、入試問題説明会とSENZOKU NIGHT 説明会の申し込みを開始するから、ホームページ上の混雑が予想される。だから、早い者勝ちですよ♪と。
☆やるなァT先生!
☆しかし、集客戦略は、目新しくない。かつてのNの夏期講習の申し込みが懐かしい。先着順で、前の席がとれるから、保護者がみな徹夜で並んだ。
☆私も保護者と徹夜した。徹夜保護者会や面談をやったなあ。1200人教室で、6年生が600人だったから、徹夜しても面談は終わるわけないのだけど、それでもノリというか勢いというか共にいるというか。
☆あのときは、2月1日から10日まで、毎朝応援に奔走した。応援しては、拠点教室に戻り、合格した親子とハグをし、もうあきらめますと涙する満身創痍の親子を激励し、次の日、その子の受験校に応援にいった。私と握手したからといって、合格するわけでもないけれど、なぜか芝や聖光、神奈川学園、調布(当時)学園の2次や慶応中等部の最終合格者が一堂に会して、あきらめなくてよかったと泣いた。
☆あの当時は補習をすることはできなかった。そういうシステムだった。しかし、そんなことは言ってられなかった。10時30分ぐらいまで、国語、算数、社会、理科の補習室をつくって、不得意科目を中心に生徒は受講した。もちろんロハだから、生徒は自主的にやるからすごいけれど、ふだんの授業で寝るなヨ!とどんなに励ましたか。
☆できる生徒は、一通り回ってきて、最後は私とスペシャル問題で一騎打ち。12月にはいるや、私はスピードで圧倒された。そして、彼らは私の弟子になり、ほかの生徒の面倒をみた。それ以来チューター制をいまでも、あちらこちらでやっている。もっとも大学生がチューターだが。それはともかく、教えるとなぜか骨太の力がつく。
☆その教室は、塾業界の常で、できる生徒を引っこ抜かれて、いわゆる偏差値的に高い生徒は少なくなっていた。しかし、当時は偏差値は超えるものだったし、実際思考過程のトレーニングでなんとかなった。そのトレーニングとして生徒同士が教えることは一番効果的だったように記憶している。
☆慶応中等部を受けるはずだったフェリス受験組が、湘南白百合がパスできなかったので、関東学院に集結した。私の周りでメソメソしていたから、なんて言ったか覚えていないが、一喝したのだけは覚えている。メディアが写真を撮りにやってきたので、無神経だよとついでに一喝した。とんだトバッチリだっただろうに。「とにかく目の前のことがんばってこい!、フェリスは絶対合格しているから(湘南白百合は定員が少ないだけで、あとで繰り上がってくるのは予想していたから、それを信じて放ったのだと思う)」と送り出した。
☆お母さん方は、これからフェリスの発表を見に行くというので、拠点教室で吉報待ってるからと別れた。あのときの今は心を乱さないようにしようというお母さん方の祈るような気持ちは、忘れられない。
☆拠点教室で待っていると、次から次へとやってきた。先生!やったー!と朝の情けない顔は嘘のようだった。そして同時に湘南白百合も繰り上がってきた。
☆あの年は、本当によく体が動いた。家庭内暴力勃発という男の子がいた。お母さんから電話がかかってきた。補習が終わったらすぐに行くと、夜遅く立ち寄った。休んでいると思ったら、そういう状態だった。いっしょにレスリングして、少し知の問答をしたような記憶がある。その生徒もすごい学校に合格した。
☆もちろん、成功例ばかりではない。どこも受からなかった生徒もいる。塾としては安全策を取らせる受験相談をススメルのだが、当時の私は多くの親子とどこまでもがんばるのだと朝は面談、夕方は授業、夜は補習をしていたわけだ。
☆ある妹は、姉の頑張っている姿とうまくいかなかった結果を見て、私のところにやってきてずいぶん泣いていた。その妹は、満身創痍でも最終的に合格した親子がやってきて笑顔でいるのをみるたびに、やってきて泣いた。
☆いつも言葉をかけることができず、ただただいっしょにしばらくいただけだった。しかし、最後は、彼女に勇気づけられたのは私だった。塾としては、引き抜き騒ぎを抑えることができたので、私自身は撤収とあいなった。翌年、妹から合格の電話をもらった。また元気と勇気をもらうことになった。
☆その後決定的な戦略を仲間と躍起となってやった。神奈川から東京への地盤拡張のための大きな戦略だった。そして再びある教室で引き抜き事件があり、そこに降り立った。6年生だけで200人いない小教室だったので、あの時と同じように大暴れするのは簡単だった。
☆偏差値50以上が半分もいない教室だったので、子どもたちとおもしろいように成績があがるじゃないかといって、激を飛ばし続けた。偏差値が高かろうが低かろうが、大事なことは高くても下がった時にすぐに手当てをする。低くてもあがった(低いとあがるときはすごい)ときに、どうしてあがったのかプレゼンさせてほめた。当時は、偏差値の上下のポートフォリオを瞬時に出せるシステムがなかったから、仲間に特注でシステムを実験と称して作ってもらった。それをみながら、話しかけまくっていた。学ぶのは本人。そのペースメーカーになろうとしていたのだと思う。
☆補習は、相変わらず禁止されていたが、面談中につき関係者お断りの一室をつくり、そこに弟子たちを派遣した。弟子といても例によって受験生。当時はまだまだ公開されていなかった二次試験の過去問が山ほどあった。それを解きまくる空間をつくった。
☆私はとくに何もしなかった。そういう場を作っただけ。あとは、休み時間に、毎週試験の結果と自分の勉強の状況を30秒で報告させた。ノートに書き込んでいたのをプレゼン。最後に、「で、今週はどう改善するのか?」と質問して、改善点を確認してクラスに戻らせた。
☆悪質ないじめもあった。しかし、ゲームセンターまでおいかけていって追撃したし、いじめる側もいじめられる側も過去問質問会を先生方に協力してやってもらった。もっと前からやっておけばよかったとボソっといったとき、偏差値に勝てるなと思った。もちろん、その通りになった。
☆そのときも一年でその教室の騒動は収まったので、私自身は撤収と相成った。風の便りで、よく学習進捗状況を報告しに来ていたあの生徒が進学した学園の生徒会の会長になったと聞いた。その学園は今ではとんでもない偏差値だから、世の中はわからない。
☆中学受験市場も少しずつ変わっていただろうが、偏差値がなかった教室とは思えない高実績をあげた。そのときの仲間はほとんど辞めているが、チームワークの勝利!奇跡の教室と自画自賛していたのを思い出す。アルバイトの学生も大いに助けれた。
☆洗足学園の111。遠いかなたの記憶を呼び覚ました。もう20年以上も前の話。でも受験生と保護者のあのはりつめた緊張感は今も変わらない。
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