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グローバル人材はアートのある学校から②

☆アートまでいかなくてもデザイン思考を学べる私立中高一貫校はグッドスクールであり、そこからサイードが言う意味での心ある知識人としてのグローバル人材が生まれるわけだが、アートのある学校の場合、ものすごい人材が生まれる可能性があるのだ。もちろん、その学校のすべての生徒にそれは開かれている。

☆どういうことか?それはサイード的知識人が生まれる可能性のあるアートは、芸術教科が単体ですごいのではない。そのようなアートが成立するには、数学と言語教科が特別な意味で優れているという条件があるのである。

☆それと地理!地理はアートと数学、言語の結晶体でもあるからだ。

☆なんのことを言っているかわからないと言われそうだが、それはしかたがない。私には力量不足で説明できない。しかし、アートと数学と言語がリンクしている学校があるのである。それを伝えるだけでも価値あることだと思う。理屈はあとから誰かが考えてくれるのではないかと・・・。

☆総合学習をやっているという意味ではない。アートはアート、数学は数学、言語は言語で、授業が完結しているのだけれど、生徒は横断しているから、ある高い水準の次元が同じだと、生徒が勝手に育つのである。この高い水準まで持ってくる必要のある教科がアート、数学、言語、地理なのであるが、次元がそろっていないのが、一般的である。だから、グローバル人材が塊でうまれてこない。生徒の資質に任されてしまうのである。

☆ところが、アートと数学、言語、地理のレベルが高次元でセットされたとき、どっと生まれるのである。

☆「ゲーデル、エッシャー、バッハ」のノリなのだ。

☆これに気づいたのは、土浦日本大学中等教育学校の説明会で話された数学の先生のカリキュラム論と聖学院の中1から高3までの数学の授業を拝見したときの着想と共立女子のコミュニケーション型数学の授業の存在が一つにつながったときのことなのである。

☆それと聖学院の平方先生(校務部長)と共立女子の渡辺先生(校長)とコンテンポラリーアートの話が重なったときのことなのである。両校には、ハッとするようなコンテンポラリーアートや建築デザインがあるので、ひとしきり盛り上がった。

☆さて、開成や栄光、聖光、国学院久我山、本郷の数学の先生方のわいがやを拝見した時は、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」のつながりは感じなかった。というのもスーパー優秀な数学の授業であるから、テクニック論のすばらしさに圧倒されて、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の感覚は臆されてしまっていたのだと思う。

☆ところが、3校の数学の先生方には共通点があった。それは日常言語の数学的概念化にたっぷり時間をとる第一ステージがまずあり、そこから概念化をシンボル化に次元をシフトする第二ステージがあり、そこからシンボル操作のトレーニングにはいる第三ステージが構築されているのである。

☆開成や栄光の生徒は、シンボル操作からスタートできる。どんどん難問が解けるようになる。ところがだ、アメリカのプレップスクールの高1生でも、まだまだ概念化・シンボル化で終始している。

☆つまり、シンボル操作は専門領域、スペシャライズされている領域だから、アメリカでは大学に行ってから研究すればよいわけだ。シンボル操作は必要だが、難問を解く必要はない。

☆スペシャライズされた数学を中1から始められると、日本の大学入試には有利だが、世界の数学観とはズレが生じるだろう。大事なことは、概念化やシンボル化のプロセスなのである。スペシャライズされる前の大前提、つまりそれこそが基礎であるのだが、そこをしっかり学ぶことによって、スペシャライズされた領域が横断的発想を遮蔽することを相対化できるようになる。つまり普遍化できるのである。

☆とたんに「ゲーデル、エッシャー、バッハ」の発想が訪れる。日常言語は、概念化されることによって、思考領域にはいるが、思考を自前で組み立てるには、概念はさらにシンボル化されなければならない。この段階で、サイード的なアートは生まれる。言語(3校の場合は国語・英語)は文学になる(国語の領域でここまでやっているのはJGである。麻布は概念化以上は一部の生徒かな)。数学は哲学になる。

☆創造とはテクニカルな世界が再びファンダメンタルな深層に立ち返るときに生まれるものだが、そのファンダメンタルな深層を気づかずにパッシングしてしまうと、つまりシンボル操作だけで済ますと、実はたいへんんことが起こる。それについては今更言うまでもないだろう。

☆マインドマップの手法は、日常言語を概念化するためのレディネスであるということがわかる。営業は概念化でよいのである。がしかし、経営マネジメントは次の段階のシンボル化が重要になる。

☆ところで、なぜ地理がシンボル化なのか?これは聖学院の地理の授業で、生徒と教師が問答をしている様子と元開成の地理の教師生田先生の授業観とが一瞬のうちにリンクして気づいた。

☆今思えば、生田先生が社会の授業を構築する方法論を駒沢や早稲田の学生とデザインしていた時のあの手法こそ、概念化そしてシンボル化の過程だったのだと。

☆そのときの聖学院での問答は、イタリアやフランスのように、オーストラリアでもワインができてしまう理由についてだったが、パッと理解した生徒たちの脳内では、地理的な条件がシンボル化されていたのである。

☆バルト海と日本海と環太平洋。地政学的なシンボライズによって、ハッとするような発想が生まれるはずである。このシンボライズの学びが、数学、言語、そしてアートを結びつける。サイードの言う意味でのグローバル人材の誕生である。世界の協働は、このグローバル人材のアートと数学と言語と地理のベースで響いている通奏低音であるシンボル化のイマジネーションが生み出すのである。なるほどこれぞ「新しい公共/公響的世界」。

☆学校説明会で教科の話や授業公開がなされることは、いかに重要であるか。そのチャンスがなかったら、このような着想は私自身に生まれてこなかったと思う。

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