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学校選択のミスマッチの回避

☆いよいよ併願校もほぼ選択し終わって、合格へ向けて集中する時節である。そんな時節だから改めて確かめておいた方がよいのは、学校選択のミスマッチということになっていないかどうかということである。

☆どういうことか?それはまず偏差値の活用の仕方である。

模擬試験で高い偏差値をとれる受験生は、高い偏差値の学校にいける。

☆これは当たり前であるが、だからこそトラップに引っかからないことだ。

☆偏差値が低ければ、偏差値が低い学校に行くというのは、当たり前でないからである。

☆偏差値というのは、将来MARCH以上の大学に行けるというめちゃくちゃ限定的な学力の指標にすぎないということなのだ。

☆もっといえば、受験における偏差値というのは、MARCH以上の大学に行ける学力保証しかしないということだ。

☆さらにもっといえば、現状のMARCH以上の大学で通用する「言葉」を理解できることを意味しているに過ぎないということなのだ。

☆だから、偏差値が高くないということは、その言葉は理解できないということである。その言葉が通用する言語世界とそりが合わないということである。

☆89年までは、日本はそのMARCH以上の大学の言語世界と政治経済法律社会は一致していたから、その世界に無理やり入らなければという抑圧的時代だった。だから、心理学が流行った。今もそうだけれど、それは89年ぐらいまでの大学生が今大人になって活躍する時代であるから、引きずっているだけである。

☆要するに、言語世界は、MARCH以上の大卒の世界だけではないのである。その世界は依然としてある。まだ幅を利かせている。しかし、所詮は1%の超富裕層のパイをめぐって闘い挑む言語世界である。そこでは相変わらず競争が激しいから、うつ病や無気力という精神の病が生まれる世界である。勝ち組と負け組の格差の大きさ。しかし、その一喜一憂に挑戦する選択をとめる必要もない。選択の自由というのは尊重しなければ。

☆問題は、その言語世界に合わない生徒のアイデンティティを壊さない学校を選べるかどうかである。偏差値が低い学校で、MARCH以上の言語世界しか使っていない学校がある。そこを選んでしまったら、生徒のアイデンティティは壊される。それが自己否定感という偏差値が高くない生徒の心を支配する病をつくってしまう。

☆MARCH以上の大学の言語世界ではなく、個人差に対応する言語を見出す「最近接発達領域」を作成する言語能力のある教師や教育システムを持っている学校を選ぶのが、得策だと思う。

☆偏差値が低いというのは、MARCH以上の大学の言語世界には合わない別の言葉、コミュニケーション能力を持っているということなのだ。それをつぶしてはいけない。

☆村落共同体を維持している公立学校には、それは望めない。1%を支えるための99%の産業ピラミッド社会に自分のアイデンティティを壊して、そのピラミッド社会に適応して生きていくことが正しいとなんら疑いも持たない大人たちによって運営されているからである。

☆ならば私立学校ならよいのか?そんなことはない。偏差値が高い学校で、MARCH以上の大学の言語世界を受け入れながらも批判的に相対化できる学びの環境をなんとか持っているところは、麻布とJG、共立女子、海城ぐらいだろう。

☆それ以外は、MARCH以上の大学の言語世界で生きている。だから、偏差値が55いかない学校で、MARCH以上の大学言語世界にないところを探したい。

☆しかし、その中で、MARCH以上の大学言語世界どころか、そのほかの世界と共約可能性のない独善的世界の学校もある。

☆あくまで、分類的なロジックで考えているから、そのようなカテゴリーに入る具体的な学校の名前を言う必要はないだろう。

☆それから、偏差値が55いかない学校で、MARCH以上の大学言語世界しかもっていない学校もある。どうしてもその世界に入りたければ、選択すればよいだけである。

☆偏差値が55いかないのは、そもそもMARCH以上の大学言語世界にいないからだというグッドスクールがある。別の豊かな世界があるのだ。見つけるには、帰国生の受け入れ方をよく観察したい。帰国生に東大にはいってもらうというような学校は、そうでないということはもうおわかりだろう。

☆それから海外大学への道を準備しているかどうかでもそれはわかる。

☆しかし、何より明快なのは、抑圧的ではないコミュニケーションの雰囲気があるグッドスクールである。ところが、この雰囲気にもトラップがある。教え込むコミュニケーションしかない学校は、抑圧的だというのはすぐにわかる。グッドスクールではない。

☆フラットなコミュニケーションというのが危ない。魚を与えるのではなく、魚の採り方を教えるというのは、抑圧的なコミュニケーションとよく対比されるから、たしかにこちらの方がフラットな感じだが、それは規律統治型ではないだけで、環境統治型であることにかわりはない。

☆採り方自体、生徒側から作り出すその制作方法を教えられるかである。結局MARCH以上の大学言語世界は、そこの既得権益を守るための言語を製作してきたのであるから、その既存の知識を鵜呑みにできる生徒にとっては有益だ。しかし、自分で作っていきたいという生徒の方が実はたくさんいるわけであり、その生徒を大切にできる学校はどこかということが重要なのである。幕末の吉田松陰とその弟子たちのような生徒が、本当はたくさんいなければならない。

☆そして、これもまたパラドキシカルなのだが、世界を制作できる知恵が育つと、MARCH以上の大学の言語世界を相対化しつつ理解できるから、その種類の大学にも入れてしまうのである。こういう私立中高一貫校こそ21世紀型のグッドスクールである。

☆しかし、偏差値が55いかない学校で、MARCH以上の大学言語世界の言葉しか活用できないところは、そのようなパラドキシカルな飛躍は、学校組織が生み出すことはないだろう。友人とか予備校(意外とMARCH以上の大学言語世界を超えている講師がいる)での出会いで、個人的に飛躍することはあるだろうが。

☆首都圏中学受験生45000人が、10%のMARCH以上の大学言語世界系の私学に入るための競争をして、自己否定感を押し付けらるようなことはやめた方がよい。同質・同調の村落共同体だけがコミュニティではないのだ。世界は多用で広い。そしてアンビバレンツだし、パラドキシカルである。

☆多角的・複眼的な学校選択を。個人差から生まれる未来の多くの才能者のために。

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