変わる私立中高一貫校 なぜ脱偏差値か?
―◆前回のつづき。
☆なぜ脱偏差値か?このことを議論しなければならないとはなんと時間の無駄なのだろう。戸邉校長の話を聞いて、今更ながらそう感じた。たしかに偏差値は、国際標準ではない。そんな指標で大学、中高を選ぶ国はない。
☆しかし、日本は世界標準では役に立たない指標で、物事を評価している。たかが偏差値されど偏差値。日本国内では、あらゆる判断基準に、このドメスティックな指標が大きな信頼を獲得しているのである。
☆就活、役職、年収層、婚活、お受験、中高、大学・・・こうして考えていくと、なるほど偏差値ベース学校化社会と言える。
☆偏差値は、日本人の今や文化になっていると言っても過言ではない。こんな学校化社会は、グローバリゼーションにおいて活力ある生活を創り出すことができるのだろうか。
☆答えは明らかである。否である。
☆何を言っているのか?という方もいるかもしれない。しかし、こういう見方をしたらどうなるだろうか?偏差値は自分で決められない指標である。常に相対化される指標である。しかし、人間は自分で自分の価値を決める信念が必要ではないか。すると自分で決められない指標を気にして生きるなど、不安症候群としかいいようがない。偏差値に一喜一憂し、世界に通用しない万能感幻想を抱いたり、世界で認められる価値を自らおとしめ自己否定感に陥ってしまう社会とはなんて人間を幸せにしない社会だろう。その社会の価値基準が偏差値に他ならない。脱偏差値は重要だろう。
☆それでもまだ、わからないという人がいるのなら、偏差値基準の学校化社会日本は、どんな経済を生んできたのか振り返ってみるとよい。1998年以降名目GDP経済成長率の平均はマイナスである。アメリカもドイツもイギリスもフランスも実はプラスなのである。
☆これが、偏差値ベース学校化社会の脱成長論というまことしやかな経済理論である。このマイナス成長がなぜ生まれるか?
☆戸邉校長によると、クリエイティブでないからである。イノベーティブでないからである。偏差値は決められた知識の中で出題されるテストで決められる。しかし、グローバルな世界は、決められた知識で乗り切れるだろうか?
☆渡辺校長は、解なき世界で活躍できる人材に必要なのは、偏差値ではなくリベラルアーツな学びである。要素分析型の人間ではなく、関係総体を組み立てたり、全貌を見通せる人間だろうと。
☆脱偏差値は日本社会の変わらねばならぬ根本的な価値観そのものの話である。このことに気づけるのは21世紀型教育を実践している私立中高一貫校だけである。
☆ところで、このような私立中学は日本全体でどのくらいあるのだろう。聖学院で行われたパネルディスカッションでは、0.5%にすぎないという。そりゃあ脱偏差値の重要性を根本から気づく日本国民はいないに等しい。この少数者に耳を傾けなければ、そこだけがチームノアになってしまう。
☆偏差値は、受験市場が作っているが、その価値を支えているのは、明治維新以来、≪官学の系譜≫が継承してきた優勝劣敗思想なのである。
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