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桐光 本物の別学教育

☆桐光学園が共学校でないことは、多くの人が知っていることである。本物の別学教育を実践している貴重な存在である。その理由については、ちょうど「ふつうの共学校の死角」を書き始めたところだから、そちらに譲ることにするが、桐光学園について触れたのは、期せずして、生徒研究・作品集「テオリア№8」を送っていただいたからである。

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☆この作品集には、中学3年間の生徒の多様な教育シーンでの創作活動の成果が収められている。いわば、桐光の中学の男女別学教育のポートフォリオである。同時に、桐光生の中学3年間の成長の軌跡でもある。

☆それにしても、このような教育は、ふつうの公立学校ではまねできない。というのもこの作品集は思春期学のプログラムの宝庫だからであり、そのようなプログラムは、ふつうの公立共学校では、高校入試があるためにできないのである。

☆このことがいかに、日本の未来を危機にさらすかは、いずれ論じることにするが、ともかく中1の美術の作品のほんの一部を紹介しよう。

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☆6枚の写真(両サイド)から、想像をふくらませ、映画のストーリーを考える(作品集には言語化されたストーリーも掲載されているが、ここでは省略)。そしてそのポスターを描いたものである。

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☆二つの作品のうち、どちらが男子の作品で、女子の作品だろう?一目瞭然である。最初が男子で、次の作品が女子の作品である。中1の段階では、このステレオタイプな男女の特徴が明確。しかし、それが6年間で変わるのである。

☆この段階では、自然と社会と自己は、なんとなく結びついているだけである。同じ地平に並んでいるという感じ。ところが、中3あたりになると新聞レポートや企業研究、そしてダンスの創作というプログラムがある。「ふつうの共学校」では、中3の段階で、このような手間暇かかる教育活動を行うことは難しい。高校入試があるからだ。

☆よって、思春期学はスルーされてしまう。しかし、桐光学園はここでじっくり自己沈潜する時間をとるわけだ。

☆社会なき自然は考えられず、自然なき社会は考えられない。ここまでは「ふつうの共学校」でも頭ではわかるかもしれないが、それを身に染みてわかるというところまではいかない。そして、精神は社会の影響をうけるし、その逆もある。しかも精神は身体であり、身体は自然そのものである。近代の闇は、この自然と社会と精神の分断が生み出したものである。「ふつうの共学校」は、まさにこの分断製造装置であり、それに気づかない仕掛けが、共学校なのである。

☆ともあれ、この段階まできて、サンデル教授の話がやっと身に染みるのである。正義の判断は、自然と社会と精神の生態系を形成維持する言葉力なのであると。

☆それが近代民主主義を維持する言論の自由のメンタルモデルなのである。思春期は、その3者の生態系を生み出す苦悩の時期である。ここで3者の関係をどこまで広げられるかで、高校以降の成長が決まる。

☆実は、多くの高校卒業者、大学卒業者は、自然と社会と精神の生態系を生み出す言葉をもたずにして社会に出る。社会の言葉は自分の言葉ではなく、お上から下る規則なのである。自分でその規則の信頼性・正当性・妥当性をチェックもできず、法創造へのチャンスも絶たれてしまうのが、「ふつうの共学校」なのである。

☆一般に、この「ふつうの共学校」は、公立学校をさすのだが、私立学校の中にも「ふつうの共学校」が一部に存在する。高校入試がないのになぜ?大学入試をそれに置き換えるからである。

☆日本の大学は、思春期学がなくても合格できるのは、公立中高一貫校や公立の進学重点高校によって証明されている。だから、私立でも「思春期学」をスルーすることもできるのである。

☆そのような私立学校はどこか?それは「テオリア」を手にとれば、すぐにわかる。このような教育がなされていないところが、「ふつうの共学校」なのだから。

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