海城と聖学院にみる男子校の思春期学
☆海城と聖学院は、共に男子校。東大をはじめとする国内難関大学の結果では違いがあるが、帰国生の受け入れや海外大学へのプログラム開発への意欲やその成果では甲乙つけ難い。
☆そもそも難関大学の成果の違いは、教育の質の違いよりも、20世紀型教育の基盤だった偏差値志向性のなせる業による違いである。そこの部分を除いて教育の質をみてみると、男子校の教育の質がみえてくる。
☆大学進学実績を除くと、その学校の教育の質が見えなくなってしまう男子校もあり、そうはなりたくないと、かつて聖光の工藤校長は力説していたことがある。その通りだろう。ともあれ、それを実現するために、聖光は、月曜日から金曜日までは、大学受験勉強を行い、土曜日は男子校ならではの教育の質を生成するプログラム実施を集中させた。
☆この合理的思考は、東大合格者の成果を栄光と肩を並べるほどにしたし、一方でそれ以上の教養教育の付加価値も明快に表現できるようになった。この付加価値の壁が、東大の数で栄光、聖光につづく浅野やサレジオ学院との教育の質差を明快にした。
☆工藤校長は、東大の実績を除いて残る教育の質は、浅野やサレジオにはあるのかということを暗に示すことに成功し、神奈川エリアで聖光の確固たるポジショニングを確立したのだ。もっとも浅野は工藤校長の戦略に気づきその部分においても巻き返そうとしていると聞き及ぶ。何せ≪私学の系譜≫のルーツであるのだから。
☆それゆえ、聖光はさらにこの教育の質の部分が、東京の男子校の独特の≪私学の系譜≫である教育の質と同レベルであることを示すために、ベネッセの主催する「新しい学びのフェスタ」に参加し、印象付けてもいる。
☆この「新しい学びフェスタ」に参加して教育の質を証明している東京の男子校に麻布や海城、筑駒、聖学院がある。本ブログでもたびたびこれらの学校の教育活動やプログラムを紹介しているのは、その教育の質を考えたいからである。
☆「新しいい学びフェスタ」は教育の質を支える「学び学」の表現であるが、教育の質を支えるもう一つの軸は「思春期学」である。これについては、まだ証明するイベントはない。それゆえ、学校の活動をリサーチする必要があるが、幸い麻布や海城、聖学院は学校サイトで、こまめに教育活動を公開してくれるので、大いに助かる。
☆今回も、海城は中1のプロジェクト・アドベンチャー体験を、聖学院は高1のアドベンチャープログラム体験をそれぞれ公開している。
☆両校の教育の質は非常に豊かであるから、それぞれのプログラムから中1のときの男子生徒の特長と高1のときの男子生徒の特長が、だいたい予想ができる。
☆中1の男子生徒は、まずは感性を研ぎ澄ますことなのである。どんなに知識を大量に詰め込んだとしても、感性が豊かでなければ、世界や社会の痛みを共有し、その解決のために、知識を結びつけることができないのである。この点が中1の女子生徒と大きく違いがある。別学志向がつよくなっているのは、この違いに対応できる学びを開発しなければならないからだろう。
☆また、感性が豊かであるだけではなく、自ら自らを見つめることができる内面性の豊かさ、つまり内観やメタ認知というクリティカルシンキングの育成が十分にできなければ、問題解決のためのミッションや忍耐力を抱くことができない。
☆それゆえ、中3から高1の大きな思春期のうねりに際し、自己の内面を見つめるプログラムを実行することは意味がある。しかし、共感する感性が育っていなければ、そのようなプログラムは空回りするのである。女子の場合は、すでに共感的な内面は育っているが、それがメタ認知化されなければ、共感性が同調性に変質してしまう。それが女子の思春期の難しさだ。同調性のデメリットは、男性教師には見破ることは難しいからなのだ。
☆女子教育の話はいずれするとして、聖学院の場合はだから農村体験のプログラムを中学のうちに実施しているし、海城では、高校に向けてドラマ教育や現代思想、論文指導などのプログラムが実施されている。その仕掛けは聖光のように機械論的合理主義組織論ではなく、生態学的学びの組織論によって編集されているところが、≪私学の系譜≫の奥行きの深いところであるが、歴史が浅ければ、当然シミュレーション的な発想になるのは、英米の教育を比較すれば、すぐにわかるだろう。
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