≪私学の系譜≫ ヴォーリズの意味[01]
☆写真の聖学院の校舎は、一粒社ヴォーリズ事務所の設計である。もちろん、ヴォーリズ本人ではないが、その精神を受け継いだ建築事務所。シンプルで、まっすぐにミッションを全うする意志が表現されている。
☆この建物は、その後多くのキリスト教学校のモデルにもなっている。西南学院、フェリス、横浜共立、玉川聖学院、明治学院などもヴォーリズの建築思想を継承している。
☆ヴォーリズの凄いところは、メンソレータムや建築による利益を、すぐに社会に貢献したことだ。近江兄弟社の学校教育、サナトリウムなどの医療、さらに中国で子どもたちの困難な生活を救済すべく清水安三がつくった崇貞学園の支援をしたのだ。
☆上記写真は、今も近江兄弟社中高にあるヴォーリズの意志を表現した印である。この近江の地から、神の国は広がるのだという強い信仰と意志のシンボルである。聖学院の塔と共通しているのがわかるだろう。1905年2月2日近江に訪れて、ヴォーリズは知っていたかどうかわからないが、この地こそ織田信長が日本の拠点としたところであるが、そこを拠点に生活することに決めたのだ。
☆そこには、その織田信長を支えた近江商人たちもいた。彼らの精神が日本の経済を今も支えていることは確かであり、これは誰かに調べてもらいたいのだが、近江商人にヴォーリズの精神が混入しているのではないかとも考えられる。この仮説がもし正しければ、ヴォーリズの拠点選びはますます慧眼だったということになる。
☆ともあれ、近江に実際に訪れて、散策すれば、その雰囲気は伝わってくる。さらに、ヴォーリズの建築は、この近江、つまり琵琶湖という水上のインフラが、中国大陸や朝鮮半島までリンクするイメージを生み出し、実際広まった時期があったほどだ。
☆夏は軽井沢に事務所を設けて、避暑生活をしていたようだ。あの旧軽の商店街に訪れたときに、だれもが食するモカアイスの店舗が事務所だったようだ。そしてプロテスタントの教会なども設計したという。
☆となれば、ここで私学人たちと出会っていたに違いない。この地で戦後日本を救済する話し合いやコンセプトが盛んにされていたのは、今では明らかになっているが、その対話に加わっていた一人にヴォーリズもいたはずである。
☆この地で、戦後教育基本法成立のために奔走した私学人は集結していたし、一方では、ヨーロッパ合衆国構想として「汎ヨーロッパ」を唱えたEUの父クーデンホーフ・カレルギーの精神に触れていた私学人もいた。
☆戦後日本を救済するために、最善だったかどうかはまだ歴史は明らかにしていないが、日米交渉のシナリオを描いた要人たちが知恵を絞っていた。軽井沢テニスコートの出会いを実行したのも彼らだ。またロシアとの交渉のシナリオを描いた要人たちも軽井沢で知恵を絞り、日ソ交渉を実現していった。
☆ヴォーリズとは、彼自身の凄まじい生き様として私学人であると同時に、かように私学人の生き方の典型として重要な意味のある存在なのである。それは福沢諭吉、江原素六、新島襄、元祖ナデシコである多くの女性私学人、新渡戸稲造、内村鑑三がそうであるのと同様である。
☆今回はヴォーリズの精神を継承して桜美林を創立した清水安三を少し概観してみたい。そして、今年の春、聖学院に就任した戸邉校長がまさに同じような生き方をしていることも紹介したい。ヴォーリズ→清水安三→戸邉校長という≪私学の系譜≫が今もこれからも脈々と続いていくことを伝えられたならと思っている。
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