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新しい教育は新しい社会と個人に[03] 図式的に

☆大学生・院生チュータや帰国生入試の受験生と話すテーマは、現象としては多様なのだが、結局根っこはサンデル座標系と社会と個人の関係変遷史。この両方を理解するにはどうしても1989年以降のパラダイムシフト2.0の議論をしなければならないが、ともあれ彼らと議論してきたことをもとにザックリ図式化すると、次のようになる。

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☆まず、前回紹介した伊佐山元さんが言っていたことの一つを繰り返してみよう。

 グローバル化の時代で必要なのは、すべてを無難にこなす平均主義ではなく、得意なことや好きな分野に関しては、徹底的に学び通すという強い意志と、それを可能にする環境である。誰もが何らかの“オタク”になる必要がある時代なのである。

☆ポジティブな“オタク”のメタファであるが、このメタファは、1989年に特有なものなのである。それを89年以前の社会や国家に対するイメージで語ると、ネガティブでドロップアウトしたかのような意味合いでとらえていまいがち。そしてこういうイメージでとらえているメディアが多いから、まだまだ89年以降のパラダイムシフト2.0の認識が広まっていないのだろう。

☆89年以降は、特に教育領域においては、ブレアやクリントンがでてきて「教育、教育、そして教育」だと教育の資本の時代到来が叫ばれ、実際イギリスは教育で経済を繁栄させようと躍起となっている。

☆しかし、その後ブレアが不人気だったように、イギリスでさえも、どうも89年以前の近代化社会の尻尾がきれていない。この教育資本説の発信元はアンソニー・ギデンズである。ブレアやクリントンに「第三の道」政策の影響を与えた。

☆それはともあれ、ギデンズは「再帰的近代化」に突入していることを論じていた。この「再帰的近代化」という概念は、まだ学習指導要領では扱われていないから、日本の多くの高校生は89年以前の社会観で大学に進学していく。大学でもそれは社会学でもとらない限り研究しないだろうから、スルーしてしまう。

☆この再帰的近代化とは、宮台真司氏や東浩紀氏が言うような、大きな物語を喪失した近代化社会だし、動物化したポストモダンな社会とほぼ同じである。

☆宮台氏や東氏が学会の主流ではないだろうから、やはりこれらの概念は、一般にはスルーされる。

☆したがって、東大をはじめとした国立大学や政府官僚のグローバル人材育成は、89年以前の近代化社会を支える人材という位置づけになってしまう。そうではなくてもっとアントレプレナーな人材が育つ社会や教育をということが大事なのであり、だから前回「GENモデル」をご紹介したのだ。

☆しかし、この「GENモデル」はシリコンバレーという新しい社会でこそ活躍できるのである。もちろんシリコンバレーは新しい社会や組織としてモデルにはまだまだ十分でないが、少なくとも現在の日本社会とはまったく違う新しさを持っていることは、伊佐山元さんの話からも、推測は難くない。

☆ともあれ、89年以前は、所属していることに疑いももたなかった近代化社会の正当性が冷戦終焉によってすっかり揺らいでしまったということなのである。だから、なんとかしようとして、仮想敵国を通して社会を形成していればよかった時代から、相手がいなくなったから、再帰代名詞よろしく、自らを鏡に映して、再点検しなければならなくなったわけである。

☆相手と競争して差別化していればよかったのだが、もはや平均化した同じような国民どうしが競争しなければならなくなったわけだ。すると、共通部分ではなく、差異化を自分の中に持ち込まなくてはならなくなった。PDCAの振り返りサイクルがあらゆる場面でもてはやされているのはそういう背景がある。

☆ともかく、その差異化は微妙だから、今までの大雑把なカテゴリーの知識では所詮量の競争でしかなく、差異化に対応できなくなったわけであるが、そこで登場したのがITである。ところが、これによって、量は克服できるが、またまた差異化は微分化する。もはや生身の肉体である脳みその記憶容量は超えてしまったのである。そこでITという外部記憶媒体がデータベース(DB)を精緻にしていく。

☆近代化社会は正当性を失ったわけだから、アイデンティティを支えるのは、個人にとってデータベースしかなくなった。ネットに入って、DBを頼りにするしかない。しかし、このDBは量が多すぎても、何一つ創造的要素はない。今や創造は既存の知識のリンクの組み換えであるということになった。

☆こうして、再帰的近代化とか大きな物語を喪失したとか、動物化したポストモダンな社会とかいう概念が、実存することになる。なるほど知識基盤社会の到来ではあるが、結局、近代化社会の正当化を再び再帰的に持続可能にする社会になった。

☆ところが、ここでは、かつて良かれ悪しかれ、悪法も法なりという法の支配で歯止めがきいていた慣習が壊れてしまっているから、不平不満が増幅して露呈し、危機管理ではことは済まないリスクマネジメント必要社会になってしまった。

☆だから、この再帰的近代や大きな物語を喪失した社会、動物化したポストモダンな社会をきちんと分析して、ネクストドアを見つけねばならないのに、「オタク」を特異化し、分析対象にせずに、近代化社会のデメリットをなんとか改善すればよいという話にすり替わっているのが現状である。実存と認識のGAPというわけ。

☆近代化社会のデメリットをなんとかしようとしてしても、そのデメリットを有している社会が目の前に実存していないものだから、政策は空転し、陥った自らのトラップである再帰的近代社会から脱することができないでいる。

☆分析対象が違うから、新しい教育を行う新しい社会や個人は立ちあがってこないのである。幻影をいくら改善しようとしてもそれは空虚であるということなのだ。

☆だから、新しい教育をやるには、少なくとも学校という社会やそこに住まう個人が新しくなることを認識しなくてはならない。

☆公立中高一貫校と私立中高一貫校が、同じようにICTを活用しても、海外研修や留学プログラムを導入しても、前者は近代化社会の枠組みでしか機能しないし、後者は学校によっては新しい社会や個人を生成するソフトパワーを発揮できるのである。

☆いずれにしても、否応なしに、「GENモデル」は、たとえば、ヨーロッパからはIB日本版によって、米国からはTPPによって提示される。このときに競争ではなく、共にいきていくコミュニケーション資本を形成しておく準備ができていないと、増税圧力によるインフレターゲット政策を強いられ、日銀と共に国民の財産は吸い取られてしまうのだけれど・・・。それでよいのだろうか?

☆もし9月にIMFがギリシアやスペインに介入したり、ドイツ国民が、EUの財政出動政策を、ドイツ国内では違憲であるというような決定でもしようものなら、「GENモデル」の準備ができていないところから、衰退が加速する。なんとかEUがリーズナブルに動き、インフレターゲットをゆるやかに持ちこたえ時間稼ぎをして、その間に「GENモデル」を作らなければ、日本社会の未来は世界に従属するしかない道を歩むだろう。それでよいのだろうか?

☆もちろん、最終ゴールは、世界の中央銀行が最後の金庫番としてふるまうことによって、世界がリセットされる恐れがあるから、そのとき新しい社会をすみやかにデザインできる「GENモデル」人材を育成しておくことなのだが・・・。

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