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伊東乾さんの本質論 ≪私学の系譜≫としての武蔵

☆以前「武蔵の知 伊東乾氏を通して」で伊東さんの考え方をご紹介したが、今回もJBPress(2012年8月24日)に掲載されている「世界の中の日本 本質的な議論がなく、無関心が蔓延する大学 東京大学に入ったけれど・・・ああ無常(9)」をご紹介したい。同誌によると、プロフィールは以下の通り。

作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督

1965年東京生まれ。東京大学理学部物理学科卒業、同総合文化研究科博士課程修了。2000年より東京大学大学院情報学環助教授、07年より同准教授、慶應義塾大学、東京藝術大学などでも後進の指導に当たる。若くして音楽家として高い評価を受けるが、並行して演奏中の脳血流測定などを駆使する音楽の科学的基礎研究を創始、それらに基づくオリジナルな演奏・創作活動を国際的に推進している。06年『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗った同級生』(集英社)で第4回開高健ノンフィクション賞受賞後は音楽以外の著書も発表。アフリカの高校生への科学・音楽教育プロジェクトなどが、大きな反響を呼んでいる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)、『知識・構造化ミッション』(日経BP)、『反骨のコツ』(団藤重光との共著、朝日新聞出版)、『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など

☆このプロフィールにあるように、伊東さんは、今年6月に亡くなった団藤重光といっしょに仕事もしていたことがあって、追悼の意味も含まれて書いていると思われる。

☆団藤重光が、東大の教授陣は本質的な議論をしなくなったと語っていたことを思い出して、それをスーパー学際人の面目躍如といった力を発揮して、団藤法学理論をメタファにそれを論証している。少々長いが、その部分を紹介しよう。

團藤先生がおっしゃられたのが、「悪法もまた法」というソクラテスの言葉でした。この言葉の解釈がとても重要なのです

 ソクラテスの言葉を「悪法もまた法だから、何がなんでも守らねばならない」と、字義通り四角四面に捉えることを、團藤先生は「朱子学的」として排されました。ソクラテスはそういうことを言っているわけではない、と。

 同じことは「法実証主義」的な方向に流れる、とも言うことができるとのことで、物事の善悪判断と切り離して、教条的に法の条文を理解することは、人間性や人間の主体性の否定で、そんなことでは本末が転倒してしまう、と先生は厳しく批判されました。

 「法には、運用によって悪く働いてしまう条文もたくさん含まれている。というより、あらゆる法は悪用すれば悪法となってしまう。問題は解釈と運用で、法の条文に書かれていることを何でも字義通り守る必要があるわけではない。法だからといってすべてに従わねばならぬ、というわけではなく、むしろ従わない方がよい法の条文も数多く存在するのだから」

 こうした法の条文に対する柔軟で人間的な姿勢は「死刑廃止」を巡る議論で最も如実に現れてきます。

 日本の現行刑法(1907)には死刑に関する詳細が明記されていますが、それを字義通りに守るのが正義=ジャスティスである、などという教条主義は、極めて非人間的で朱子学的である、それではいけない、とおっしゃるわけです。

 「人間に価値を生み出すために法があるのだから。悪法があったとしても、そこからよい判例を積み上げて、動く社会の価値に即した法の価値を主体的に作り出していくのが大事なんだね。陽明学の『革命』はそこと本質で繋がっている。ここに人類の文化として法の、ダイナミックな本質があるんだね・・・」

 思い出しつつ打っていて、改めて目頭が熱くなってしまいました。ああ、こういう懐の深さで私たちの社会、いや、今日の人類全体を見る知性が、地球上にどれくらい存在していることでしょうか。

 少なくとも東大あたりの首脳程度では、このレベルの見識を期待できるとはとうてい思えません。求めるべきは人士、と改めて嘆息せざるを得ない思いで一杯になります・・・。

☆法はそれ以上でもそれ以下でもないという法実証主義を教条主義として退けているわけであるが、あるいは逆にそれとは違う陽明学的な発想を肯定しているわけであるが、これは伊東乾さんの思想の本質的な土台だろう。

☆そしてそのことが、伊東さんが武蔵中高を卒業したという証でもある。武蔵のOBがみな同じ考え方をしているかどうかわからないが、渋谷幕張も模倣した同校の「自調自考」という理念を継承していれば、法にそう書いてあるから「悪法も法」でしかたがないなどと判断しないことだろう。

☆団藤重光は、東大の大きく分けて2つの派があるうち、法実証主義あるいは法律進化論派ではなく自由法学派である。前者は、富国強兵の正当化理論の基礎をつくり、今も続く優勝劣敗思想の土台である。つまり「勝ち組負け組」論者。東大初総理(今の総長)加藤弘之が、総理になる前まで福沢諭吉らとコラボしていた啓蒙思想を捨てて、ダーウィンとは本質的には違う社会進化論を提唱。それが民法典論争にも及び、そこで法律進化論派が勝利し、今の日本の近代民法ができた。そこでフランス啓蒙思想は吹っ飛んだというのは日本史の授業でも習うことである。

☆がしかし、それが実は≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫の闘争史の始まりであることは教科書歴史では語られない。教科書は公立学校のために編集されているから仕方がないが。。。

☆そして、この≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫の闘争史の原点は、吉田松陰の門下生たちの生み出した今後も継承されていかねばならない文化遺伝子である。つまり朱子学に対し陽明学という図式、つまり普遍論争をもちこんだということ。

☆簡単に言えば本質があるのかないのかというビッグクエスチョンである。日本の近代化は、この欧米の文化遺伝子である普遍論争遺伝子を継承したことによって成立していると言っても過言ではないだろう。

☆だから、最近東大の教授陣が本質を語らなくなったというわけでもなく、東大に象徴される日本の近代史が、誕生以来、実証主義と本質主義の精神闘争史だったということだけであるのかもしれない。

☆戦後は一時的だったけれど、本質主義が勝利し、南原繁率いる内村鑑三、新渡戸稲造の弟子たち及び私学人が戦後教育基本法成立に貢献した。その後ムーブメントを起こしたが保守本流にはなれなかった現代思想は、基本はルソーの「言語起源論」をベースにしているから、≪私学の系譜≫の流れを温存してきた。しかし、教育基本法改正と公立中高一貫校ブームが、難関大学に合格することを目的とする本質なき法実証主義的思想、つまり優勝劣敗主義を蔓延させているといった状況。

☆それが3・11を契機に再びルソーである。よくリスボン大地震のときに啓蒙思想が勢いを増したのに比較される。

☆そして、この≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫の闘争史のレンスで世界を眺めてみると、欧州危機が法実証主義的発想でクラッシュしていること、領土問題が法は法であるという法実証主義では解決が難しいことなど、映し出されるはずである。

☆米国の大統領選挙も、強い≪官学の系譜≫と弱い≪私学の系譜≫の選挙合戦である。オバマ陣営はもちろん後者である。強い≪私学の系譜≫は、サンデル教授の言うコミュニタリアニズムであるが、ルソー自身がヤヌスであると言われているように、理解は難しい。オベリンが、≪私学の系譜≫に属しながら、ルソーの思想とは一線を画していたのもそういうわけだ。

☆いずれにしても伊東乾さんの考えは、東大の文化史及び(それが日本社会に影響を与えてきた)精神史の中に、今も≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫の闘争状況が存在しているということを反映している。

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