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私とは何か?を正面から捉えられる学校を探すために。

☆3・11以降、私たちは、再び生きるとは何か?人間とは何か?自然とは何か?社会とは何か?そして子どもたちにとっては私とは何か?を問わざるを得ない時を送っている。しかし、にもかかわらず、一方で、世界は革命が暴徒に暴動に変わり、相変わらずテロは病むことをとめられない。一見それとは関係ないように見えるが、学校ではいじめは水面下で侵攻しかけがえのない命が消えて行っている。

Hiranokeiichiro

☆この時代状況を、3・11以前は、大きな物語が喪失し、拠って立つべきものが失われた個人は、動物化してしまったとか、空虚になったとか、微分化してしまったという議論でとまっていた。そして、どうすべきかというと、もう一度物語をプランし、学校に持ち込むしかないという反動的な動きが始まった。

☆その動きの象徴である学習指導要領が本格実施されようとしたとき、3・11は起こったのである。そして、メディアは、このもう一度物語をプランして国民に与えようという動きがいかに信頼ができないか、正当性がないか、それよりなにより妥当しえないかを映し出した。

☆しかし、それを意識して映し出したわけではないから、その後は被災地の現状は矮小化されて映し出され、その実態が置き去りにされ、その本質を問うことは、またもや風化してしまう危機にさらされている。

☆ただし、今回は問い返す問題は、政府やジャーナリズムが無視できるような規模ではなった。その無視による鬱積は、世界同時的に爆発しつつあるのも一方で否めない。そして、その爆発に引火しているのは、ネットであり、ソーシャルメディアであることも事実である。

☆鬱積の爆発は、暴動や革命という動きにもつながるが、NPOや市民社会グループの動きにもつながる。被災地においては、後者の活動が注目される。NHKも定期的に被災地の現状を映し出してくれてはいるが、所詮はトリミングにすぎず、その映し出している信頼性や正当性は、それ自体では評価できない。

☆しかし、幸いなのは、ネットやソーシャルメディアで、別の視角で被災地の情報を得ることができるということである。

☆この事態は、新しい時代を決定的に迎えた1989年には、まだまだ考えられなかったことである。しかし、3.11前後は、被災地のみならず、物象化され商品化されたメディア以外のネット及びソーシャルメディアが活動したのである。

☆産業革命・情報革命・市民革命の時代を決定的に画する新しい市民革命が起こっているという実感は、このネット及びソーシャルメディアの世界から沸き起こっている。

☆産業革命は、化石燃料革命である。3・11以降はさらなるイノベーションである、化石燃料から離脱の時代である。これは、先進諸国は困る。化石燃料に拠って立つ、いや寄って立ってきたわけであるから。そしてBRICsも困る。後追いしてきたからである。後追いして近代の矛盾も継承してしまったのであるから、ますます危ない。

☆情報革命は出版革命であったが、それは同時に情報格差を生みエリート主義を生み出してきた。しかし、3・11以降の情報革命は、すべての人が情報を収集し、編集し、発信できる情報市民革命が起こっている。

☆そして市民革命は「個人」の権利を確立してきたが、この「個人」が空洞化したり、動物化したりして、役割が終わろうとしている。しかし、その「個人」に代わる理論や技術がまだ生まれていなかった。脱化石燃料、脱情報エリート主義までは、すでに理論や技術は見えている。

☆しかし、それが炸裂しないのは、担い手である私たちが空洞化し動物化した「個人」のままだからである。新しい社会は、そこまで来ている。NPOや市民社会グループのアイデアは、新しい社会をつくるアイデアで満ちている。しかし、その担い手はいまだ「個人」である。したがって、パターナリズムはやはり大事なのだという反動がその内部でうごめき始めてもいる。

☆そんなとき、平野啓一郎氏は、「個人」から「分人」へという、ついに人間のパラダイム転換を確信した。そこに到る過程は、氏自身の小説執筆の過程であるが、それを理論化したのが上記写真の新著である。

☆この新しい「私とは何か」の問い返しを回避して、キャリア教育も思春期学も新しくならない。これらが新しくならないところに、教育や大学の改革が進まない原因があることすら世間は気づいていないほどである。

☆もちろん、この「分人」という発想、つまり脱個人という発想は、文化人類学、社会学、心理学、遺伝子工学などなど学問レベルではあっただろうが、文学まで降臨してはこなかった。もちろん、発想的には森鴎外や夏目漱石にもあったと平野氏も語るが、平野氏の明確に新しいのは、ネットやソーシャルメディアを、単なる道具ではなく、新しい言語という人間存在そのものとして扱っているところにある。

☆哲学の領域では、ハーバーマス教授そしてサンデル教授が、教育学の領域では、ハワード・ガードナー教授やシーモア・パパート教授、社会学ではアンソニー・エリオット教授が、平野啓一郎氏と同じ地平に立っている。

☆しかし、文学に結実しなければ、時代を変えるエネルギーにはならない。それゆえ、平野氏の本書の功績は格別である。

☆ともあれ、これまで、近代の個人は、いかに道具的存在だったか、改めてよくよく了解できる。道具的存在としての価値観が、鬱積を生み、いじめなどを生み出していることがはっきり透けて見えるメディアが、平野家一郎氏の書である。

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