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読売新聞 教育が変わらない罠

☆読売新聞「教育ルネサンス」(2012.10.5)の記事「(2)評価の基準知り意欲」は、日本の教育が変わらないワケが書かれている。

「どんな図を書いたか、説明して」。教師用のコンパスや定規を手に、生徒たちが代わる代わる教壇に上がる。東京学芸大学付属国際中等教育学校(東京都練馬区)、2年(中2)の数学の授業。課題は「バスのドア付近に危険防止のセンサーをつけよう」だ。ドアの可動域を調べ、図を描く生徒たち。「今の説明についてどう思う? 近くの人と話し合ってみよう」。試行錯誤するうちに、生徒たちの図は正解へと近づいていった。

☆これのどこが評価の基準を知る授業なのか判断はつきにくい。どこに評価の基準があるというのだろう。黒板で課題を解いて、それを発表する。ピアインストラクションのように隣同士の生徒と話し合う。かりに試行錯誤でもよいが、この教育シーンは、今までと同じである。よってこれでよいとするならば教育は変わらない。

☆実際の授業では、本田先生は、誤概念に到った理由やそれが上位概念にシフトするときのプロセスを対話によって自覚し、それを生徒同士がシェアする授業展開をしていたはずだ。IBの評価基準を参照しているのだからそうなるのは当然なのだ。変化を意識するには基準の形式知化がなされるからである。

☆つまり、問題なのは、メディアの表現にあるのである。表現の構造が変わらないから、新しい教育の変化を目の前で見てもそれを世に映し出せない。だから、日本の教育はいつまでたってもガラパゴスのように表現されてしまうのである。

☆しかし、メディアに説明するときに、教師側も従来の言説で説明してしまうから、やむを得ないというのもある。

「問題演習は家でもできる。いろいろな考え方を吸収し、解法の基礎となる概念を形成することは、仲間のいる学校でしかできない」と、指導する本田千春教諭(42)は解説する。

☆もし本田先生がこのように表現したとしたら、メディアが誤解するのもしかたがない。「仲間」という言説は授業モラルの話であり、認知能力とは、いったん切り離して説明しなければ、概念の理解のプロセス基準の話なのか道徳発達なのかわからなくなってしまう。

☆これだと家庭では教師のコントロール下の学びの仲間がいないから考えることができないと言っているようなもので、教育の民主主義からは外れてしまう誤解を生む。そしてこのこと自体はIB的な発想ではない。IB機構が生まれる以前の教育モデルである。

「思考の過程を重視するIBの理念と、私たちが目指していたことが、ぴったり一致したばかりか、適切な評価の方法も示していた」と本田教諭は言う。例えば、「図形のどんな性質がどのように利用されているか、その利点は何かを説明できる=5~6点」「図形のどんな性質がどのように利用されているのかを説明しようとしている=1~2点」などといった具合だ。

☆IBを導入するまでもなく、実は数学の解法を学ぶとき、このようなことは従来もやってきている。大事なことは、適切な評価の方法を示しているというところにはない。評価の方法それ自体を生徒が学ぶというところが勘所なのだ。それがIBである。もちろん評価の基準を教師が公開するかどうかも重要ではあるが、結局は評価するのは教師であるというのではなく、評価方法を体得して自己評価がきちんとできるようになっているかどうかをいっしょに考えるというのが世界標準の評価基準の考え方だ。

 何をどの程度求められているか、生徒自身が理解できる。「他校の先生は、生徒に成績の付け方を種明かしするなんてと驚くが、苦情を言ってきた生徒は5年間で1人。考える姿勢が評価されると分かり、生徒の意欲は目に見えて上がった」と本田教諭は言う。テストで測れない部分をきちんと評価することが、考える力を鍛えている。

☆求められていることが理解できても仕方がないのである。サッカーやテニスなどの試合を見ていて、どんな技術が必要なのか、どんな戦略が必要なのかは理解できるだろうが、それでサッカーやテニスができるようになるわけではない。その技術を自分が身に着けているというメタ認知がなければどうしようもないだろう。

☆「生徒に成績の付け方を種明かしするなんてと驚くが」というアカウンタビリティーを無視した非市民的言説としてメディアが編集してしまうのは、新聞のパブリック感覚が問わる時代と言うことか。

☆「考える姿勢が評価されると分かり、生徒の意欲は目に見えて上がった」というのは、IBのようなモノサシの話しではない。姿勢という授業モラルの話である。IBを研究している学校が、こういう言説を無造作に使うはずはない。編集段階でそうなってしまうのだ。従来の日本の教育では、IBやタキソノミー的基準を学べなかったのだから仕方がない部分もある。

☆「テストで測れない部分をきちんと評価することが、考える力を鍛えている。」という言説も誤解を招く。これではテスト悪玉論だ。IBのように考える力を評価できるテストを創ることが重要であり、そうでないもので考える力を評価することなどいかにして可能なのか?テストとは測定器である。測定器を使わない評価はむしろ危険である。従来型のテストの測定器としての機能はあまりに粗雑であり、性能の良い測定器としてのテスト開発をすることが重要なはずである。

☆メディアの教育の表現に、教育が変わらない罠が埋め込まれているのである。

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