ブラウン大学の学生の活動②
☆この自己解体しつつ自己創造するというその間が瞬間的なのは、日本の学生とは、というか私たちとは決定的に違う。熊平さんは、ローマ史や国際経済など時代と地政学的な見識をハイパーリンクさせながらも、シンプルな問いを投げながらプレゼンを進める。
☆シンプルの基本は比較・対照。米国と日本の教育の比較。誰しもが経験し、あれっと思いながらもスルーしてきたトピックを投げかける。日本の教育では、もっと客観的に、自分の主観なんていれないで論文を書け、発表しなさいと指導される。
☆米国でも、客観性は大事なのは言うまでもない。でも問題は、その客観性は誰がつくるのかということだ。そこが議論され検証されることのほうが重要なのだ。
☆そして、なぜそこに疑問を持てるのか?それは自分とは違う、違和感があるという強烈な自己体験と照らし合わせるところから始まるのだ。この客観性という世界と自分の世界の葛藤の決着をどのようにつけるか、そこが肝である。
☆ところが、日本では、客観性とは、教科書である、官庁が作成した統計である。それをクリティカルに問いかけることはタブー。もちろん、タブーなんていうと思想の自由・言論の自由を保障している憲法に反する。だから、そうは誰も語らない。宮台真司さんお得意の表現を引用すると、空気に縛られてるってやつだ。その空気は初等中等教育段階で、「君の意見さえなければ満点なのに」とゆっくり醸成される。
☆熊平さんも小谷さんも途中まではそうでない世界が日本にもあって、そこでワクワクしながら学んでいたのだが、受験や就活などといったある瞬間から、まわりがそのタブーを無意識のうちにとりいれていく流れに違和感を強烈に感じている。もちろん、そこにはすてきな今となっては貴重なエディプスコンプレックスへ挑む得難い体験も重なっている。
☆2人と対話していると、このような体験を失ってきている虚構の日本社会構造をどうするのか、どうとらえるのかという眼差しを開かれる。親会のコミュニティは、人間性喪失の現代日本の環境に、留学生と同じような違和感をシェアしているのだと思う。
☆しかし、だからといって人間回復がなされていた時代があったのかというとそういうわけでもない。常に人間の可能性に開かれているのが歴史である。その可能性の芽を摘んでしまう教育環境だけはがまんならないということだと思う。
☆未知なるもの、不確実なるもの、それは可能性である。だから、この可能性を恐れずに見つめたい。そうでなければ活動は生まれないのである。そして活動の基本単位はコミュニケーションである。わたしにとって、身近で最も可能性が広がっているのは、他者である。他者にとってわたしは可能的世界である。だから、活動が生成される。その生成は言うまでもなく未来にプロジェクトされる。
☆ここにブラウン大学の学生のプレゼンがスーパープレゼンテーションである理由があるのではないだろうか。
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