なぜ学校は変わらないのか、教育は変わらないのか
☆日本の学校や教育は、戦後教育基本法を軽視してきた。そのことによって、学内の秩序が組織的にではなく、因習的な空気によって縛られてしまっている。
☆それゆえ、改革的な精神を持った若手の教師は、職に就くやその空気に縛られて身動きがつかなくなる。
☆教育は愛と奉仕だという根性論が因習的な秩序を支配しているのである。若手教員は、この抑圧を跳ねのこける前に取り込まれてしまう。これが体罰を正当化してきた根本だろうし、心の病が教師に多いといわれている元凶だろう。
☆愛と奉仕は、一見問題ないが、若手の教師が自己研さんするチャンスを作れないほど、生徒と常に密着し管理していることが愛だろうか。
☆時間外勤務という法的ルールが適応できない長時間を生徒と共に密着することが奉仕だろうか。
☆受験準備のための教育を第一義に掲げることは違法ではないのだろうか。
☆デモクラシーに反する行為は、愛でもなく奉仕でもない。強要であり強制である。デモクラシーに基づいた愛と奉仕こそ、教養であり共生であろう。
☆部活における体罰など違法であるという見解がやっと露わになってきたが、そもそも部活という存在を学校の教育活動にいれる法的根拠はどうなっているのであるか。
☆そもそもここがデモクラシーに反する根拠で成り立っているとしたら、体罰が起こらざるを得ない条件を生み出しているのはこれまでの学校や教育システムそのものではないか。
☆皇室でさえ人間であると宣言しているのに、教師が神でありつづけるのはおかしい。デモクラシーに基づいて、学びと倫理と体育を構築することこそが戦後教育基本法に基づくことであり、これに反する教育活動は教育ではない。
☆文科省はきちんとそこを問い返すべきであるが、そもそもそこはあいまいにしておきたいのだろう。予算の問題があるからである。
☆ここを解決するには、ICTによる教育イノベーションが一つの突破口であるが、予算に紐づいた企業との連携では、元の木阿弥である。
☆これは企業に問題があるのではなく、市場の原理を活用しない公立学校の教育行政に問題があるのである。予算に基づいて企業と提携するのは、選択肢がないのに選択せよということだから、公正な市場の原理が働かないのは当然なのだ。それゆえいろいろな問題が起こるのである。
☆教育改革、学校改革は、教育におけるデモクラシールネサンスなのではあるまいか。学校の法化現象が多発するのは、そこへのプロセスということだろう。
☆現状で教育デモクラシーを遂行できるのは、私立中高なのである。公立に比べ市場の原理が大いに働いているからである。私が私立学校に期待をよせるのは、その精神が戦後教育基本法に見える化されたという歴史的事実があるからである。それは改正されてしまったが、≪私学の系譜≫の精神は、法規になる以前から存在し、それは不変なのである。
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